観智院ご本尊さま


 


名誉住職 土屋光道上人

 「願成寺メールマガジン」に執筆をお願いしております土屋正道上人が、昨年10月にご自坊の観智院の法灯を継がれ、観智院第23世ご住職となられました。その折頂戴いたしました冊子「翔(しょう)−はばたきの瞬間−」に、正道上人のご祖父にあたられます土屋観道上人の書かれた「月夜の思い出」という法話が載せられております。読ませていただき、子を持つ親といたしまして、たいそう感動させられました。ご住職土屋正道上人、正道上人のご尊父にあたられる名誉ご住職土屋光道上人のご許可をいただき、掲載させていただくこととなりました。
 「月夜の思い出」につきまして、光道上人は、つぎのように述べられております。

   父の法話が大正11年の『真生』創刊号を初めとして沢山遺されて
  います。その中で、私にとって父の思い出として、一番深く印象に残
  るのは、昭和9年11月号に載った父が四十九歳私が七歳の頃の「月
  夜の思い出」であります。また、多くの方からも、「あれはよかった」
  「お上人の傑作だ」などという評を承ることがございますので、今回
  のこの賛嘆録に再録したいと思いました。その文章に出て来る宗教
  人と家庭人との問に揺れる父の心について、いくらか内容の理解を
  援ける為に、そして最後に父と光道という私的な関係を超えて、皆様
  御自身への父の心を、そして仏様の愛を受取って頂ければと思いま
  す。

 是非とも、お読みいただきますことを念じております。


「月夜の思い出 」

観智院第21世 土 屋 観 道 上人

 八月の頃であったか、私は或る日の夜、長男の光道と云う今年七つの独り息子を二階につれて上った。
丁度湯上りではあり、それに二階はそよ風が吹いて、非常に涼しい気持ちのよい晩であった。折から月が南の縁側から座敷の中にのぞきこんでいた。
 「光ちゃん!あのお月さまを御覧なさい。いいお月さまですね!」
 こう云って、私は光道を私の手もとに呼びよせた。そして私は、丁度月の見える所の縁側近くの畳の上に、ごろりと横になって、片ひじをついて、西を頭にして横になった。
 「おとう様、いいお月さまですね!」
 かれは静かに月を見入って、こう云った。その時彼はもう私のそばへ来て、私にだかれていた。そして勿論、私も彼を引きよせて、静かに彼をだきしめていたときである。

 私はどう云うものか、此の子がひとしお可愛くてならない、そして何とかして此の子に永遠の真の幸福を与えたい。私自身に幸福を与える力は無いが、今私の感じているようなこの幸福、それは云うまでもなく、此の広大無辺な天地の中に充ち満ちている如来様の慈光、而もその裡に永遠より永遠に生きることのできている此の仕合せ、此の幸福、それを私は此の子にも判って貰いたいという、その願いであった。
 今夜と云う今夜は私には何の不安も無かった。否、私には此の子、光道を見るとき、どんな苦しみも私には忘れられるようである。子を思う親の心と云うものは誰でもそうかも知れないが、近頃の私はそのことがつくづくと感じられてならない。

 私は永い問、二十歳前後から宗教を求めて、それに没頭し、殆ど最近までは人生と云うもののすべてを之に費した。だから此の外には私の人生は全くないと云ってもよい。尤もその中には御飯も食べた。伝道もした、又私の気に入った妻も得ることが出来た。しかし乍ら、それも私の道を求める心に此べればものの数にも入らぬものばかりである。之等は皆私をして云わしむれば、ただ人生道中の一つの出来事にすぎない。
 然るに、此の光道に対しては、私はそうした感じを起すことが出来なくて、特に此の子を思う至情の余りに深いのに驚いている。
 そう云えば他の子供はどうかと云えば之も亦愛してない事はない、光道の上に二人、光道の下に二人、合わせて女の子のみが四人いるが、これとても一々それに接し、その間の愛を思えば、一人として親の至愛に区別のあろうはずもなく、又どれとして、親愛の浅からぬものとてはない。けれども、五人の中にたった一人の男の子、どうしたものか彼は私を心から慕ってくれる。子として親を慕わぬものはあるまいが、五人の子供の中で、彼は特に私を専心に慕っている。かと云って、それだから私は彼を愛すると云うのではないが、どうしたものか、彼ばかりは私の手ばなすことのできない至愛の中にある。

 私は今もなお、毎月の半分は外出して家にいないのが常である。その為めに親しく子供に接することができないのと、又家に帰っては朝夕の仕事、仕事と云っても、全く宗教のことのみではあるが、その為めに殆ど二階に昇りづめで、ゆっくり子供の相手などする暇がない。その為めに子供の教養には今少し時間が欲しいと思うことも度々である。こんなことはどこの家庭でも同じだとは思うが、特に、仕事を外にのみ持って、家を不在にする人の家庭に限って、多くは不良の子の出来るのをよく見る私は、近頃一層心して自分の子供を見るようになった。
 「あわれ、人の子と生れし此の子達、お前等もこうして人の子として生まれて来た。それに何の因縁あってか、お前等はたくさんの人と云う人の中にも、ただひとり、吾等夫婦を親として生れて来た、それなのに、此の父は如来の使命を果す為めとは云い乍ら、ろくに父の慈愛をお前達にゆっくり与えることの出来ぬのをすまぬと思う」と私はこういうことを此の頃時々、之等の子供に対して感ずることがある。
 一家をたった独りの妻にまかせきりで、経済のことから子供の世話まで、その一切を妻に任せて私は殆ど全部を伝道に専従している。
 しかし乍ら、「こう云うことは果たして人として為すべきことか。そしてまた、果たして多くの人々が妻子ある身で為しうることか。妻の身としても、或は堪え難いことかもしれぬ。又子としても必ずしも仕合せではないかも知れぬ」とこんなことさえ思うことがある。
 本当の意味から云えば、せめて朝夕は無論のこと、時に月一日なり、二日なり一家が揃って外出もし、或は喜びを共にする夕食の膳にもつき、時には一家揃って仏前に念仏すると云うことが一家の中の理想ではないか、家庭の平和、家庭の楽しみ、私はこうした中から、国家の為め、社会の為めに真に働く人物も出るかと思う。
 そう思うと、私の如きはあまりにも理想高きにもかかわらず、甚だ実践の伴わないものである。だから昔から宗教家は独身を以て、一生を終るべくせられたのではあるまいか、それは之等の妻や子に対しても自分の責務が尽せぬからである。又それかと云って、妻や子の為めに自己が捕われて、自分の本務を忘れ、真実の伝道も怠るようでは之また宗教家としての道がとれぬことになる。
 こんなことを思うと、私は今更のように、「私のような人間はやっぱり妻をも娶らず、子供も無い方がどれ位よかったか」と思うことさえある。そしてまた、それ丈けに、自分の不徳を妻と子に対して、人知れず済まないと思うことも重々である。

 けれども、こうしたことは恐らく私ばかりではないかもしれぬ。凡そ、人として、いかなる人も、幾分か此の考えのない人はないかと思う。それは凡てが凡夫の生活であり、又働かねば食えない今日の社会である。食う為めの人生でないと云うことはもとより承知ではあるが、そこまでに行かない人は自然に食う為にもその家をあけねばならぬ場合が多く、それでなくても何事かを為さんとする人々は一そう家にばかりいて真の仕事ができようわけもないのだから、大きな仕事をすればするほど、又自ら家を空にすることの止むなきものがあることはやはり私と同じであろう。
 私はこう思うとき、やはりこう云う人々も私と同じく、その妻子に対する充分のつとめを事欠くことがあるのではないかと思うことがある。
 かと云って、今更ら独身にもなれない。独身になれば反って、それ丈け一層妻子に対してもすまぬことともなり、それに比べれば、まだ今のままの方がどれだけましか知れないからである。
 そしてまた、そればかりではない、こう云う私が一家の為に、一家のおかげでどれ位心の底から此の人生がなぐさめられつつあることか。一家の楽しみ、一家の団欒、それは何でもないようなことであるけれども、心から全身を献げてくれる妻の至情、他人から見れば取るにも足らない、嫌われものの私ではあるけれども、心をこめたるその妻の情け、子供の信頼、之等は天下何ものと云えども之に代るべきものはない。
 それにまた、夫として妻を思うことのできる心、親として子を思うことのできる心、こうした一家の中に身心を忘れて心の底から安らぎうるものは何と云っても家庭の外にないのではないか。私はこういうことを今つくづくと感じている。そして、私は「私の宗教はやっぱりこれでよいのではないか」と思っている。否、「之でなくてはならぬのではないか」とさえ思っている。

 私は三十四歳の結婚であった。晩婚と云うことは少々云い過ぎかも知れぬが、子供の為にはむしろ晩婚と云わねばならぬ。そしてそれだけ今や余命も少ないと思う一人である。
 未だ五十にもいたらぬ者が今から余命なぞは何事だと云う人があるかも知れぬ。然し静かに人間の一生をふりかえって見れば、人生の二十年、三十年と云うものは実に夢のように過ぎて行く、殊にここ二十年の過ぎたことのいかに速いかを思うとき、私の一生、それがよしまだ十年二十年あったとて、それはまた実に夢のように速いと云わねばならぬ、こうした意味で、私は近頃、実につくづくと人生の無常を感じている。
 尤も此の無常と云うは信仰に入らない以前に考えていたような無常では毛頭ない。死を恐れるの無常ではない。もうすぐだぞ、ぐずぐずしていると遅くなる、為すべきことも何もできぬと、何となく旅路が急がれてならぬ感じがする。秋暮れて冬近づくの感じである。
 春は春を楽しみ、夏は夏を楽しむように、秋は秋を、冬はまた冬を楽しめばよいことではあるが、それならばまたそれでよいとして、私は此の人生の春秋を心ゆくまで楽しみたい。
 人生を楽しむと云うは如来を中心として、一家団欒に、社会も国家も人類の幸福のために挙げて真実の生活にはいることである。而して、今はまだその時でない、今はただ工事工策の最中である。そこには大なる努力を要する。あらゆる人類の覚醒を促し、奮闘以って此の身を致すべきの秋である。

 それでも私は近頃、それもここ六、七年の事ではあるが、時々私は自分の家に帰ることにした。そしてせめては此の時間のうちに、心から家庭の生活に入りひたり、妻子への務めも果そうと努力した。
 もとより、外への活動も理屈から云えばそのまま、一家の一員として、又同時に社会国家の一員として、自分の為すべき仕事ではあるが、それは暫く、とに角として、一つの務めでもあり、また一つの楽しみとした。
 「光ちやん、あのお月さまがああしてお空に輝いているが、今ここばかりを照らしているのではないよ。どこもここもお月さまの照らさないところはないのだよ」
 私は月を見ながら、実は月の事を考えていたのでは無かった。
 天地の充つる如来のみ力、そのお慈悲の輝いているのを見て、それに入りひたっている、その光りのことを私は云ってた。然し乍ら、此の月の光を受けて、尚その月の光に気がつかない人のあるように、まだ、此の如来様の光を見ることのできない此の子に、私は謂い知れぬいたわしさを感じざるを得なかった。
 此の子がいつになったら、私の此の心が判ってくれるだろうか、此の月の光に照らされて、此の月を見入っているように、ジッと如来様のお慈悲に入りひたるときが此の子にいつ来るであろうか、私はそれを知らない、その親心を知らない此の子をいじらしくも静かに抱きしめた。
 彼はピッタリと私によりそって、いかにも満足げであった。そして、その月の側にかすかに輝いている一つの小さい星を見出して、何か考えていたようであった。彼は、
 「お父さま!あそこに小さいお星さまがあるのね!あのお星さんもやっぱり世界中を照らしているの?」
 「そうよ、あれもやっばり世界中を照らしている、遠いところにあるからこそ、小さく見えるが、実はお月さまよりもずっと大きいんだよ」
 「ふうーん、どうして小さく見えるの?」
 「遠くにあるからよ!人間だって、遠くにいる人は小さく見えるでしょう。飛行機だって、遠くになるとやっぱり小さく見えるでしょう、それと同じですよ」
 「うん。」
 「それと同じに、お星さんもお月さんよりずっと大きいんだが、遠い遠い所にあるので、あんなに小さく見えるのだよ」
「おてんとうさまもやっぱりそうなの!」
「やはりそうです。お月さまと同じ大きさに見えるけれども、お月さまよりずっと大きいんですよ」
光道は何を思ってか、しきりと月を見ながら、太陽のことを考えているらしかった。
「光ちゃん、此の光の外にまだ色々の光があるんだよ、その中でも如来さまの光というものがある。光ちゃんにはそれがまだ判らぬでしょう。お父さまや、お母さまがこうして光ちゃん達を可愛がるように、此の世の中には如来様というおかたがあって、いつも世界中のものを照らしてこれを可愛がっていて下さるのですよ」
 こう語り乍ら、私は天地に満ちている如来様の慈光について語って聞かせた。大ミオヤの光にひたっている自分の幸福を感謝すると共に、いつになったら此の子にも此の如来のみ光を感じて貰う時があるかとつくづくと考えざるを得なかった。
「光ちやん!お父さまがこうして光ちやんを可愛がっているのが判るの?」
「判るよ!」
「どうして?」
彼は暫く考えていたが、ややおどけを交えて、嬉しそうに、
「ぼくがお利こうだからよ!」
と云って私によりそった。
 私も嬉しくて抱きしめた、けれども、いかに私が彼を可愛がっているかは恐らく彼はまだ充分には知らぬであろう。
 然し乍ら、私はこうして、此の子供を抱き乍ら、願わくは此の子が大きくなって、
「自分の父はとても私を愛してくれた」とそのことをしみじみと思い出してくれればよい、そしてその時こそ、「父がああしてまで私に父の愛を知らしめようとして、而もそれは、父が自分がよく思われたいがためでなくして、この私に仏様の愛を充分に受けさせたいがためであったか!」と思ってくれる日の来たらんことを念ぜずにはいられなかった。

 私はかくて、子供が大きくなるにつれて、どうか如来様の御恩を忘れず、又この両親がいかに自分達を愛していてくれたかを衷心から喜んでくれる日の一日も早く来らんことを願って止まなかった。
 何だか此の一夜は、此の月を見て深く考えさせられる一夜であった。

 


第7回 甲冑の話

 例年にない寒波と大雪です。皆さん、お元気ですか?
 
 毎年、1月のはじめになるとNHKの新しい大河ドラマが楽しみです。
 私は戦国大名のだれだれが好きとか、といった気持ちで大河ドラマを見ることはあまりなく、いい時代の雰囲気、服装や建物や俳優たちの演技や配役、そういったおおまかな雰囲気が気に入ると、なんとなく1年間見てしまうのです。記憶に残っている最初の大河ドラマは「天と地と」で、上杉謙信を演じた石坂浩二の姿が思い出せます。そのあと『樅の木は残った』『国盗り物語』『新平家物語』や、ずいぶんと間があきますが『炎立つ』『太平記』あたりが大好きでした。『樅の木は残った』は配役が好きだったので別格ですが、そのほかの作品にはすべて共通点があります。それは、武士たちが甲冑を着て画面を所狭しと駆け回る活劇であることです。
 今年は『功名が辻』で戦国の話です。今回、まだ数回しか放映していませんが、時代考証はいままでになく良好で、特に主人公山内一豊の甲冑姿には、ちょっと驚きを覚えました。
 当時の日本には、各地に戦国大名と呼ばれた地域の支配者がいました。彼らは強力な家臣団(家来)を中心にして、支配する地域の農閑期の農民をあつめて足軽(あしがる)とよばれる歩兵部隊を組織します。一豊は織田信長の家臣団で、出世をするためにまずは豊臣秀吉に臣従します。まだ武士身分であっても下っ端の一豊は、冑を被り鎧を着ていますが、まだ歩兵のような戦い方をしています。ちゃんとした冑までかぶった武士身分であっても当時の軍勢の一番下っ端からスタートしたことを示しています。
 
 今回はこの甲冑の話をします。特に『功名が辻』の一豊らが着ている甲冑の先祖、「大鎧(おおよろい)」と呼ばれるものを見てみましょう。
 
 武士の甲冑姿はなにやら物々しくて、そしてかっこよく、いさましく戦います。
 甲冑は、博物館や美術館などにいきますと、展示ケースのなかに綺麗に展示されています。その大きさ、華やかな色使い、さまざまな細工、観るものを魅了して止みません。甲冑とは、武士にとって一体なんだったのでしょう。源氏や平家といった人々が戦っていた平安時代の末期から鎌倉時代、ごく一部の武士をのぞいて大方の武士たちは、地方で農作業をしながら、かたや自分が臣従する主人が戦に参加するときは、甲冑に身をかため戦場に赴きました。武士は戦争こそが彼らの職業なのですが、
やはり土地に根を下ろした農民的な側面も持ち合わせていました。しかし、それが権力を得て、富を手に入れ、やがて巨大化していき、室町時代には守護大名、戦国時代には戦国大名となります。武士身分の仕事は、戦争そのものになります。彼ら武士にとって、人生最大の晴れ舞台は戦の場であり、そこで手柄をあげること、ひいては富と名声を勝ち得ることであったといっていよいでしょう。そんな武士にとって死に装束であり、最高の晴れ着が甲冑であったといっても過言ではありません。
 
 今回の図版は私が所蔵する甲冑の雛形です。法隆寺に伝来した「伝聖徳太子玩具大鎧雛形」といわれるものを、現代の甲冑師が正確に復元したものです。全高20センチほどの実に精巧な、そして美しくもかわいらしいものです。製作は故森田朝二郎さんで、昭和では最高の甲冑師でした。復元とはいえ、正当派の甲冑師がつくりあげたこの復元品は、もはやただの「写し」ではなく芸術の域に達しています。
 
 武士は、一世一代の晴れ着である甲冑には、かけられるだけのお金をつぎ込んだと考えられています。この鎧は「大鎧」と呼ばれるものです。馬に乗って弓箭(きゅうせん、弓矢のこと)で戦った平安時代中・末期の大鎧の雛形です(「伝聖徳太子玩具」という言い伝えは、たぶん後世の人が考えたもので史実ではありません)。本物の大鎧は40〜50キログラムもあるもので、皮革を主要な材料とし、鮮やかな色に染め上げた糸を組んだ紐や、銅に鍍金・鍍銀を施し鏡のように磨きこんだ金具まわりを補強と装飾をかねて取り付けた豪華なものでした(甲冑はそれが作られた時代
のあらゆる工芸技術の粋といえるでしょう。各時代の工業水準のものさしともいえるものなのです)。この雛形は「沢瀉(面高)威」と書いて「おもだかおどし」とよばれる装飾的な紐が施されたものです。水辺にはえる「おもだか」という草がありますが、これを表現したものです。この鮮やかな色彩の組み合わせは目が覚めるような美しさです。こうした大鎧に太刀、腰刀、弓、箙(えびら:矢の入れ物)を身につけて馬に乗って戦いました。しかし残念ながら弓矢の戦いに適したものですが、馬から地面に下りて戦うには重すぎてあまり活躍できなかったようです。
 平安時代末期から鎌倉時代の大鎧は全国に大切に保存されています。東京都青梅市の御嶽神社の赤糸威大鎧や広島県厳島神社の小桜黄返大鎧、愛媛県大三島の大山祇神社の甲冑群などです。こうした大鎧はその重さや、あるいは製作費や維持費がかかることから、だんだんと簡素になったり、あるいは重さを軽くするなどの工夫が施されて、『功名が辻』の一豊の着ているような鎧がうまれます。静岡県では久能山東照宮に徳川家康が使っていた多数の鎧が大切に保存されていますが、これらは一豊の時代の鎧の中では非常に高価で上等なものばかりです。一度足をはこんでご覧になられたらいかがでしょうか。
 
 甲冑は博物館のなかでガラスケースのなかに静かに飾られています。私はこうした鎧を見るとき、かっこよさや美しさにも感動を覚えますが、ただしばらく眺めていると、これが戦争の道具であることを思い出します。こうした甲冑を着た武士たちが、殺しあった道具なのだという事実です。この甲冑を着ていた人はどうなったのだろう、と考え込んでしまったりします。生死を賭けた戦場で身につけるものであったからこそ、はかないまでに端整で美しく、そして圧倒的な存在感があり、ある種の「凄み」さえ感じるのかもしれません。

 東京大学史料編纂所学術研究補佐員、大正大学非常勤講師
 佐 多 芳 彦


「伝聖徳太子玩具大鎧雛形」(復元)

 全高20センチメートル程度の大きさとは思えないほどの細かな細工です。


冑を後方からみたところ

 冑だけは縅毛(おどしげ:沢瀉威のようなさまざまな色で染められた糸、本文参照)を手描きで書いています。皮革はある硬度に仕上げて反りを与え湾曲させると、乾燥したときねじれてしまうので止むを得なかった処置でしょう。実物の雛形でも同じように手描きです。



 金工、染織の粋を尽くしたものです。沢瀉威(おもだかおどし)のデザインがよくわかります。


栴檀(ぜんだん)と鳩尾(きゅうび)

 大鎧の胸に附属するものです。むかって左側が栴檀、右側が鳩尾です。両肩口から身体の前方の部分を高紐(たかひも)という緒で結び合わせ、頭から被るように着るのですが、その高紐を守るためにこの部品がつけられます。



 

観音堂大祭(諸祈願)のお知らせ

 春のお彼岸に観音堂の大祭を厳修いたします。寺伝によりますと、頼朝公が三嶋大社に百日祈願の折、当願成寺を宿舎といたし、その願が成就いたしたことから「願成就寺」の寺号を賜りました故事により、諸願成就の祈願をおこないます。当日ご参加できません場合には、お札は郵送申しあげます。また、当日前年のお札等を炊きあげますのでご持参ください。当日は「餅まき」「模擬店」「野菜青空市」等を予定いたしておりますので、お誘い合わせてお出かけ下さいませ。

日   時
3月21日(春分の日) 【11時】法要、【12時】餅まき
祈 願 料
3,000円 特別祈願料 1万円
申 込 み
お参りの折、電話、E-mail(前日までに)

 

第237回 辻説法の会

 お茶を飲みながら、法話をお聴きになりませんか!

日   時
2月17日(金) PM7:00〜8:30
会   場
茶房「 欅(けやき) 」 2F 055-971-5591
講   師
三明寺住職 大嶽 正泰 師
参 加 費
無料(珈琲、甘味などの茶菓代は各自でお支払い下さい。)
主   催
県東部青少年教化協議会(この会は、特定の宗派にこだわらず、ひとりでも多くの方々に仏教を伝えることを目的に活動する団体です。)
次   回
3月25日(金) 同時刻  講師 長興寺住職 松下 宗柏 師

 

 


お 願 い

 今まで、お塔婆や香花等は、寺にて焼却しておりましたが、法改定により、平成14年12月1日から「野焼き」や「簡易焼却炉」によります、すべてのごみ等の焼却ができなくなりました。現在、願成寺にあります3基の焼却炉もすべて使用禁止となり、撤去いたしました。
  したがいまして、今後、墓参の折いらなくなりましたお花などのゴミにつきましては、下記のごとく、ご処理をいたしたく存じますので、ご理解とご協力をお願い申し上げます。


ゴミの分別

 ゴミは、次の4種類に分別してお出し下さい。

「燃えないゴミ(ビン・カン)」
市のゴミに出します
「土に返すゴミ(花・香花)」
寺にてチップにして土に返します
「土に返すゴミ(草・落ち葉)」
寺にて土に返します
「燃えるゴミ(紙・ビニール)」
市のゴミに出します

いらなくなりましたお塔婆は、寺にてチップにして土に返しますので、ゴミ箱の脇にお置き下さい。
ゴミ箱は水屋(水道)の近くに用意いたします。
飲物や食べ物は、動物が散らかしますので、お参りの後はお持ち帰り下さい。
お手数をおかけいたすことばかりでございますが、ダイオキシンをなくし、きれいな地球環境のため、切にご理解とご協力をお願い申し上げます。


 

▼ 文学講座のお誘い
 願成寺公開文学講座といたしまして、『源氏物語』を読んでおります。写本(青表紙本、新典社刊)と活字本とを対校しての講読ですが、参加者全員で声を出しての読みますので初心者の方でもご自由に参加いただけます。
 現在、「須磨」の巻に入ったところで、朧月夜との事件から都に居られなくなった光源氏が、須磨へと旅立つところです。
 ご一緒に、光源氏とともに須磨への旅を始めましょう。

開催日
 毎月 第1,3土曜日(変更あり)
開催時間
 10時〜11時30分
場所
 願成寺庫裡
費用
 無料(教科書はお求めいただきます。 1000円〜2000円)
申し込み
 電話、FAX、E-mail

※ご参加をご希望の方は、檀家、非檀家を問わず、どなたでもご参加いただけます。

 ラジオが唯一の情報源であった時代から、新聞やテレビが加わり、小学生までがパソコンや携帯電話を利用している時代となった。ひと昔前の学生の楽しみというと麻雀とお酒が定番であったが、町から雀荘が消え泥酔した学生の姿は少なくなった。これも学生たちの娯楽に選択肢が増えたからであろう。世の中はあらゆる選択肢が増え、情報のアイテムが氾濫し、多様性の時代といえよう。

 教化活動の基本としては、葬儀や年忌法要を始め、修正会、彼岸法要、施餓鬼会、十夜法要と、あらゆる法要での説法であろう。印刷技術の発達によって掲示板伝道、文書伝道ハガキ伝道がおこなわれるようになった。拙寺でも「ハガキ伝道」や「テレホン説法」の経験があり、教化活動も多様化してきたなかで、時代のニーズにあった教化活動の一つとして、「 願成寺メールマガジン 」と名付けてメールマガジンを発行することにした。

 寺院という特質から、教化の対象となるのはお年寄りという現実は否定できない。また檀信徒全体からすれば、どれほどの人が、インターネットを利用しているかと考えるとその効用ははなはだ微少と思われるが、新しい形での教化活動として実験的に発信することにした。

 インターネットによるメールマガジンの配信は、お寺に足を運ぶことの少ないあらゆる世代の皆さまに語りかけることができるであろう。また拙寺のお檀家さま以外の皆さまとも、お寺とのつながりを持たせていただく方法としては最良と考えております。

 毎月一回とは申せ、浅才なわたくしにとってはかなりの重圧となっていくであろうことは想像にかたくない。三回で中止するわけにもいかず、発信を決意するのに一年もかかった始末である。

 諸大徳の応援をお願いいたしながら、皆さまとの交流の場としていきたいと存じます。よろしくお願い申しあげます。

 天主君山現受院願成寺住職
 魚 尾 孝 久

  

 

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