パコタ(ミャンマー)


仏像(ミャンマー)


祈る少女(ミャンマー)

 「きん」と読むか、「かね」と読むか、どちらにしても皆さん好きですよね。「私は『金』は嫌いだ!!」という方はいますか?中には「『金』はちっともほしくないけれど、いつの間にか増えちゃって……」なんてうらやましい人もいるようですが、私はどうも縁が遠いようです。節約は大切ですが、ケチな人が『金』に好かれるかというと、どうもそうでもないらしい。もちろんダラシナイ、ルーズな人のところに『金』が長居しないのはご承知の通りです。

 昨今は石油の高騰からオイルマネーが世界中を席巻して、一国の存亡にかかわるような事態を引き起こしたりします。あるいは身代金目的の誘拐や保険金殺人などが多発しています。はたまた20数年ぶりに金が高騰したり、「金(かね)で買えないものはない」と言い放った人が持ち上げられたり、つかまっちゃったり。オリンピックでは金メダル狂想曲で毎日大変。世の中、『金』の話が出ない日はないようです。
 なぜみんな『金』がすきなんでしょう?「かね」さえあればたいていのものが買える。衣食住を満足させることができます。「きん」はインフレに強いばかりか、さびない。美しい輝きがすべてを照らし、しかも永続性があると信じられています。仏の世界も『金』で現すことがありますね。京都の「金閣寺」や平泉の「金色堂」は、いつの世でも庶民の信仰を集めています。ところが最近はあまり拝んでいる方の姿は見られません。

 『無量寿経』には法蔵菩薩が「この願いが成就しなければ仏になりません」と誓われた48の願が説かれ、この願が成就して阿弥陀仏になられたと説かれています。そのなかで「悉有金色(しつゆうこんじき)の願(がん)」があります。「浄土の人天はことごとく真金色である」といいます。『金』は、さえぎられない光と永続性(無量光、無量寿)の証なのでしょう。「あまり金ぴかな人ばかりでは味気ない」などと思うのは、凡夫の浅ましさでしょうか。

 先日、ミャンマー(ビルマ)に行きました。人口の2倍パゴダ(仏塔)があるといわれる仏教国です。収入は都市部の人でも日本人の約100分の1。農村や僻地では経済的にはとても貧しい暮らしをしています。「かね」はありません。ところがいたるところに「きん」があふれています。人々はパゴダや仏像に『金』を惜しげもなく貼り付けます。貧しい生活の中から金箔を買い求め仏像に貼る姿、頭をたれて祈る姿に心打たれます。もちろん「かね」が儲かりますようにと祈る人もいることでしょう。しかしそれ以上に、仏の無量寿、無量光にあこがれ賛嘆する。日々の暮らしを感謝し、報恩に生きることを祈る方が多いように感じられます。

 「かねの尺度が幸せの尺度とイコールだ」と思う人がいる国に暮らしていますと、100分の1しか「かね」を持ってない人が、なぜこんなに幸せそうなのか不思議に思うかもしれません。でも、ミャンマーでしばらく念仏を称えてみますと、そんな尺度のあやしさが、なんとなくわかってまいりました。仏塔や仏像に惜しげもなく「きん」を布施する人々には、私たちが忘れてしまった心の余裕があるように感じられました。     合掌

 観智院住職  土 屋 正 道



(前話は、願成寺ホームページ「メルマガお申し込み」のバックナンバーにあります。)

第2巻「帚木」その8

 左馬頭の理想の妻についての発言その3

 左馬頭は、物事のよしあしを判定する博士となって、しゃべる。頭中将は、この理屈を最後まで聞こうと、熱心に応答なされた。

「女の善し悪しはよろづのことに引き比べてお考え下さい。木工の職人がいろいろな物を心のままに作り出すのも、そのとき限りのもてあそび物で形も定まっておらずちょっと見はおもしろく、なるほどこうも立派にできるものだなと、その時その時で形を変えて今様であることに目が移り、おもしろい物もございます。しかし、本当に整って美しい調度品で飾りとする型の定まっているような物を、難なく作り出すことは、真の名人は格別であると判ることでしょう。

 また、絵所には上手な者が多いでしょうが、墨書きに選ばれて次々に書かれたものは、ちょっと見ただけでは、ほとんど優劣はわからないものです。人が見ることのできない蓬莱の山、荒海の怒れる魚の姿、唐国のはげしい獣(けだもの)、目に見えない鬼の顔などの大げさに画かれたものは、絵師が心に任せてひときわ人目を驚かします。実は似つかぬものでしょうが、それはそれですんでしまうでしょう。
 しかし、どこにでもある普通の山のたたずまい、水の流れ、目近な家居の様子を描き、「なるほど」と見え、なつかしくやわらかなる様子を画きまぜてあり、険しくない山の景色、木深く、世離れて幾重にも重ね、家近い籬の内などを画くに、その心くばりや配置などまでが、名人の画くその勢いなどは、下手な者の及ばぬところが多いようでございます。

 文字を書きます場合にも、深き教養がなくて、ありらこちら点長に走り書き、なんとなく気取っているのは、ちょっと見には才能があって立派なようであるけれど、本当の筆運びを心得ていて丁寧に書かれた文字は、表面の筆の勢いは消えて見えるけれど、今一度の選びとなりますと、やはり実あるものがよいでしょう。

 ちょっとしたこと(工作や書画)でも、このようでございます。まして人の心は見せかけの風情はやはり当てになりません。その体験を少し好色めいておりますが、お話しいたしましょう。」

と、乗り出してくるので、光源氏も目を覚まされる。頭中将はたいそう興味をもって頬杖をつきながら、あい対している。

 まるで、坊さんが「世の道理」を説き聞かせる所の心地がするのも、興味がわくが、こうした折には、それぞれ内緒事も隠しきれるものではなかった。


え‐どころ【絵所・画所】
平安時代、宮中で絵画の制作をつかさどった役所。画工司えだくみのつかさに代って置かれ、長官を別当といい、五位の蔵人が補せられた。鎌倉時代には春日・住吉・本願寺などの社寺が、また室町・江戸幕府も、これにならって置いた。(広辞苑)

すみ‐がき【墨書き・墨描き】
@墨ばかりで絵を描くこと。また、その絵。
A下絵したえ。
B平安時代の宮廷絵所えどころの職制で、主任画家の称。源氏物語帚木「絵所に上手多か れど―にえらばれ」(広辞苑)

ほうらい【蓬莱】
[史記秦始皇本紀]三神山の一。中国の伝説で、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山。蓬莱山。蓬莱島。よもぎがしま。竹取物語「東の海に―といふ山あるなり」(広辞苑)

てん‐なが【点長】
達筆らしく、文字の点や画を長く引いて書くこと。源氏物語帚木「ここかしこの―に走り書き」(広辞苑)

 天主君山現受院願成寺住職
 魚 尾 孝 久



青表紙本源氏物語「帚木」(新典社刊)





 年に2〜3回であろうか、ハワイにFAXを送ることがあります。そして、忘れたころに請求書が送られてきます。A4版1枚の回線使用料(電話代)は10円です。無論、使用したのでありますから、納めるのは当然ですが、いささか考えさせられることがあります。

 この10円の請求のためには、まず80円の郵送料が必要となります。請求書の印刷代から、コンビニ支払いによる経費をくわえますと、100円近いものがあるでしょう。10円の請求に100円の経費がかかるのです。

 10円くらいだから無料にしたらばと思うわけではないのですが、気になって仕方がありません。とくにコンビニの若い定員さんに、怪訝(けげん)そうな顔で見られるのが困ります。

 天主君山現受院願成寺住職
 魚 尾 孝 久




 

観音堂大祭(諸祈願)のお知らせ

 春のお彼岸に観音堂の大祭を厳修いたします。寺伝によりますと、頼朝公が三嶋大社に百日祈願の折、当願成寺を宿舎といたし、その願が成就いたしたことから「願成就寺」の寺号を賜りました故事により、諸願成就の祈願をおこないます。当日ご参加できません場合には、お札は郵送申しあげます。また、当日前年のお札等を炊きあげますのでご持参ください。当日は「餅まき」「模擬店」「野菜青空市」等を予定いたしておりますので、お誘い合わせてお出かけ下さいませ。

日   時
3月21日(春分の日) 【11時】法要、【12時】餅まき
祈 願 料
3,000円 特別祈願料 1万円
申 込 み
お参りの折、電話、E-mail(前日までに)

 

第237回 辻説法の会

 お茶を飲みながら、法話をお聴きになりませんか!

日   時
2月17日(金) PM7:00〜8:30
会   場
茶房「 欅(けやき) 」 2F 055-971-5591
講   師
三明寺住職 大嶽 正泰 師
参 加 費
無料(珈琲、甘味などの茶菓代は各自でお支払い下さい。)
主   催
県東部青少年教化協議会(この会は、特定の宗派にこだわらず、ひとりでも多くの方々に仏教を伝えることを目的に活動する団体です。)
次   回
3月25日(金) 同時刻  講師 長興寺住職 松下 宗柏 師

 

 


お 願 い

 今まで、お塔婆や香花等は、寺にて焼却しておりましたが、法改定により、平成14年12月1日から「野焼き」や「簡易焼却炉」によります、すべてのごみ等の焼却ができなくなりました。現在、願成寺にあります3基の焼却炉もすべて使用禁止となり、撤去いたしました。
  したがいまして、今後、墓参の折いらなくなりましたお花などのゴミにつきましては、下記のごとく、ご処理をいたしたく存じますので、ご理解とご協力をお願い申し上げます。


ゴミの分別

 ゴミは、次の4種類に分別してお出し下さい。

「燃えないゴミ(ビン・カン)」
市のゴミに出します
「土に返すゴミ(花・香花)」
寺にてチップにして土に返します
「土に返すゴミ(草・落ち葉)」
寺にて土に返します
「燃えるゴミ(紙・ビニール)」
市のゴミに出します

いらなくなりましたお塔婆は、寺にてチップにして土に返しますので、ゴミ箱の脇にお置き下さい。
ゴミ箱は水屋(水道)の近くに用意いたします。
飲物や食べ物は、動物が散らかしますので、お参りの後はお持ち帰り下さい。
お手数をおかけいたすことばかりでございますが、ダイオキシンをなくし、きれいな地球環境のため、切にご理解とご協力をお願い申し上げます。


 

▼ 文学講座のお誘い
 願成寺公開文学講座といたしまして、『源氏物語』を読んでおります。写本(青表紙本、新典社刊)と活字本とを対校しての講読ですが、参加者全員で声を出しての読みますので初心者の方でもご自由に参加いただけます。
 現在、「須磨」の巻に入ったところで、朧月夜との事件から都に居られなくなった光源氏が、須磨へと旅立つところです。
 ご一緒に、光源氏とともに須磨への旅を始めましょう。

開催日
 毎月 第1,3土曜日(変更あり)
開催時間
 10時〜11時30分
場所
 願成寺庫裡
費用
 無料(教科書はお求めいただきます。 1000円〜2000円)
申し込み
 電話、FAX、E-mail

※ご参加をご希望の方は、檀家、非檀家を問わず、どなたでもご参加いただけます。

 ラジオが唯一の情報源であった時代から、新聞やテレビが加わり、小学生までがパソコンや携帯電話を利用している時代となった。ひと昔前の学生の楽しみというと麻雀とお酒が定番であったが、町から雀荘が消え泥酔した学生の姿は少なくなった。これも学生たちの娯楽に選択肢が増えたからであろう。世の中はあらゆる選択肢が増え、情報のアイテムが氾濫し、多様性の時代といえよう。

 教化活動の基本としては、葬儀や年忌法要を始め、修正会、彼岸法要、施餓鬼会、十夜法要と、あらゆる法要での説法であろう。印刷技術の発達によって掲示板伝道、文書伝道ハガキ伝道がおこなわれるようになった。拙寺でも「ハガキ伝道」や「テレホン説法」の経験があり、教化活動も多様化してきたなかで、時代のニーズにあった教化活動の一つとして、「 願成寺メールマガジン 」と名付けてメールマガジンを発行することにした。

 寺院という特質から、教化の対象となるのはお年寄りという現実は否定できない。また檀信徒全体からすれば、どれほどの人が、インターネットを利用しているかと考えるとその効用ははなはだ微少と思われるが、新しい形での教化活動として実験的に発信することにした。

 インターネットによるメールマガジンの配信は、お寺に足を運ぶことの少ないあらゆる世代の皆さまに語りかけることができるであろう。また拙寺のお檀家さま以外の皆さまとも、お寺とのつながりを持たせていただく方法としては最良と考えております。

 毎月一回とは申せ、浅才なわたくしにとってはかなりの重圧となっていくであろうことは想像にかたくない。三回で中止するわけにもいかず、発信を決意するのに一年もかかった始末である。

 諸大徳の応援をお願いいたしながら、皆さまとの交流の場としていきたいと存じます。よろしくお願い申しあげます。

 天主君山現受院願成寺住職
 魚 尾 孝 久

  

 

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