願成寺ホームページは、 こちら(http://ganjoji.com/)です。

次回配信日は、9月15日です。



増上寺で加行が終わって、最後の日にお世話になった先生たちとの写真
(皆、やっと楽しそうな笑顔になりました)


友達トッドの娘エミリー、トッド、私

 「夏が終わり、もう秋ですね。」と言っても、この原稿を書いている現在は実はまだ結構暑い8月の京都です。去年の今頃(8月末から9月中旬にかけて)3週間ほど残暑の中、浄土宗僧侶養成講座(僧侶となるための最後の修行)のため知恩院にいました。
 不思議なことに辛いと思うことは、時間が経つと案外忘れてしまうのですよね。修行の場合も同じで、その時は指導の先生たちも厳しく大変であったが、時間がたつと不思議に覚えたことや鍛えられたことは自然と身に付いていました。共同生活で、毎日朝暗いうちに起きて、朝の勤行、朝食、講義、半斎供養(お昼のおつとめ)、昼食、講義、夕方のおつとめ、夕食、法式、消灯、今はもはや素晴らしい経験、そしていい思い出と感謝しています。

 勿論、私はまだまだ修行や勉強不足で、もっと努力しなければと反省する毎日ですが、やはり仕事に追われている毎日でもあります(ここでちょっと秋の展覧会の宣伝をさせていただきます:京都国立博物館で10月16日から11月18日まで「狩野永徳展」を開催します。是非見に来てください。その図録と博物館たよりの英訳で現在時間が取られています)。とりあえず、頑張るしかないという現状です。仕事は修行とは違いますが、やはり、これもまたするほど色々と知識や経験が自分のものになり、辛いときもありますが、やりがいがあって楽しいです。

 人生は見方によって全く変われると思います。英語ではよく「Is the glass half empty or half full?」(コップは半分空っぽなのか、半分入っているか?)という表現がありますが、人生も辛い思いをして損したと被害者意識を持つ人と、辛いことを乗り越え、その経験から学んで強くなる人がいると思います。
 人生はそんなに単純ではないと言う人もいるかも知れませんが、我々自身が物事を不必要に複雑にしてしまうことが多いと思います。これは映画を見たり、小説を読んだり、他の人の行動を観察し、冷静で客観的に第三者の立場で物事を見る時よく分かると思いますが、案外自分の幸せや不幸を自分自身が作っていると気づきます。

 お釈迦様は「中道」と言うことを我々に教えてくださいました。この教えは人生のすべてに適用できます。食べることに関しても、食べ過ぎたり、変にダイエットしたりするのではなく、普通にバランス良く食べれば体も健康になります。買い物でも、買いすぎたりするのではなく、いるものだけ買う。人生にバランスを持つことです。
 でもそれ以上に中道は奥深い宗教的、哲学的、倫理的なありかたを教えていると思います。それは簡単に言えば、客観的に智慧を使って物事を判断することでです。これは簡単そうで、非常に難しいことだと思います。うまくいけば、誰でもいい顔で冷静にいられるが、やはり人間だからどうしても感情的になってしまいます。毎日の生活の中でには嫌なこと、辛いこと、苦しいことは一杯あります。逃げ道がないと絶望的な気持ちになることを、誰でも一度は感じていると思いますが、そのような時にこそ自分の中のバランス、「中道」が大切ではないでしょうか?

 大学院時代に色々と自分は「こんなに頑張っているのに、思うように行かない」とよく不満を感じたりしていましたが、その時トッドという人と友達になり、自分の人生が変わりました。トッドは身体障害者で歩けません、車椅子で移動しています。飛行機の座席に一日中座っていることでさえ大変なのに、車椅子の生活って想像できない苦しみだと思うが、彼は一切文句も言わずにいつも明るく過ごしています。私はこんなに恵まれているのに不満ばかり感じていた(人生のグラスを半分空っぽと見てきた)と反省しました。明るく生きて行くと周りも明るくなっていくのだなと彼から習いました。

 原 真 理


 浄土宗の真髄は、お念仏「南無阿弥陀佛」をお唱えすることである。手を合わせるごとにお唱えするのであるが、同じお念仏を口にすることはほとんどないといって良いだろう。住職であるので亡くなられた方のご供養として唱える「お念仏」、阿弥陀さまを目の前にしてご挨拶としての「お念仏」、みずからの修行として申す「お念仏」、仏さまに懺悔するときの「お念仏」、感謝の気持ちを表す「お念仏」、時にはお願いごとをする「お念仏」、多種多様のといってよいでしょう。

 私の学んだ大正大学は、僧侶の養成をも目的としているので、ある教室ではお経を読み、隣の教室では英語を話しているという、ごく自然な光景である。
 入学してまもないころであったか、授業の一環として大本山である芝の増上寺でお念仏を申した。恥ずかしながら連続して2時間をこえて申すお念仏は初めてであり、緊張して望んだ。まず声を出すことよりも、敷物のない畳に2時間以上正座することができるかが問題であった。40年も昔のことであるが鮮明に覚えている。
 最初の30分は気合いが入っているので、大きな声で腹の底から「お念仏」が生まれてくるように思えたが、すぐに足が痛くなってくる。途端に足の痛さに対抗しようとする「お念仏」に変わる。不謹慎であるが、足の痛さをごまかそうとする「お念仏」であり、時間の経過を紛らそうとする「お念仏」になっているのである。1時間を過ぎるころになると、あきらめの「お念仏」となっていた。この「お念仏」ほど情けない「お念仏」はなく、ますます足は痛くなり、ますます時間の過ぎていくのが遅くなる。

 そろそろ終わりとなるころであろうか、ほんの一瞬であるが、もう足の痛さも時間の過ぎていくことも考えずに「お念仏」を申していたのです。このときの「お念仏」が本物であったとは思いませんが、私の出発点であり今も忘れることができません。

 でも、昨日の「お念仏」と、今日の「お念仏」は同じではありませんでした。

 天主君山現受院願成寺住職
 魚 尾 孝 久


増上寺全景


堂内


 


お 願 い

 今まで、お塔婆や香花等は、寺にて焼却しておりましたが、法改定により、平成14年12月1日から「野焼き」や「簡易焼却炉」によります、すべてのごみ等の焼却ができなくなりました。現在、願成寺にあります3基の焼却炉もすべて使用禁止となり、撤去いたしました。
  したがいまして、今後、墓参の折いらなくなりましたお花などのゴミにつきましては、下記のごとく、ご処理をいたしたく存じますので、ご理解とご協力をお願い申し上げます。


ゴミの分別

 ゴミは、次の4種類に分別してお出し下さい。

「燃えないゴミ(ビン・カン)」
市のゴミに出します
「土に返すゴミ(花・香花)」
寺にてチップにして土に返します
「土に返すゴミ(草・落ち葉)」
寺にて土に返します
「燃えるゴミ(紙・ビニール)」
市のゴミに出します

いらなくなりましたお塔婆は、寺にてチップにして土に返しますので、ゴミ箱の脇にお置き下さい。
ゴミ箱は水屋(水道)の近くに用意いたします。
飲物や食べ物は、動物が散らかしますので、お参りの後はお持ち帰り下さい。
お手数をおかけいたすことばかりでございますが、ダイオキシンをなくし、きれいな地球環境のため、切にご理解とご協力をお願い申し上げます。


 

▼ 文学講座のお誘い
 願成寺公開文学講座といたしまして、『源氏物語』を読んでおります。写本(青表紙本、新典社刊)と活字本とを対校しての講読ですが、参加者全員で声を出しての読みますので初心者の方でもご自由に参加いただけます。
 現在、「須磨」の巻に入ったところで、朧月夜との事件から都に居られなくなった光源氏が、須磨へと旅立つところです。
 ご一緒に、光源氏とともに須磨への旅を始めましょう。

開催日
 毎月 第1,3土曜日(変更あり)
開催時間
 10時〜11時30分
場所
 願成寺庫裡
費用
 無料(教科書はお求めいただきます。 1000円〜2000円)
申し込み
 電話、FAX、E-mail

※ご参加をご希望の方は、檀家、非檀家を問わず、どなたでもご参加いただけます。

 ラジオが唯一の情報源であった時代から、新聞やテレビが加わり、小学生までがパソコンや携帯電話を利用している時代となった。ひと昔前の学生の楽しみというと麻雀とお酒が定番であったが、町から雀荘が消え泥酔した学生の姿は少なくなった。これも学生たちの娯楽に選択肢が増えたからであろう。世の中はあらゆる選択肢が増え、情報のアイテムが氾濫し、多様性の時代といえよう。

 教化活動の基本としては、葬儀や年忌法要を始め、修正会、彼岸法要、施餓鬼会、十夜法要と、あらゆる法要での説法であろう。印刷技術の発達によって掲示板伝道、文書伝道ハガキ伝道がおこなわれるようになった。拙寺でも「ハガキ伝道」や「テレホン説法」の経験があり、教化活動も多様化してきたなかで、時代のニーズにあった教化活動の一つとして、「 願成寺メールマガジン 」と名付けてメールマガジンを発行することにした。

 寺院という特質から、教化の対象となるのはお年寄りという現実は否定できない。また檀信徒全体からすれば、どれほどの人が、インターネットを利用しているかと考えるとその効用ははなはだ微少と思われるが、新しい形での教化活動として実験的に発信することにした。

 インターネットによるメールマガジンの配信は、お寺に足を運ぶことの少ないあらゆる世代の皆さまに語りかけることができるであろう。また拙寺のお檀家さま以外の皆さまとも、お寺とのつながりを持たせていただく方法としては最良と考えております。

 毎月二回とは申せ、浅才なわたくしにとってはかなりの重圧となっていくであろうことは想像にかたくない。三回で中止するわけにもいかず、発信を決意するのに一年もかかった始末である。

 諸大徳の応援をお願いいたしながら、皆さまとの交流の場としていきたいと存じます。よろしくお願い申しあげます。

 天主君山現受院願成寺住職
 魚 尾 孝 久


 

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