いくたびも 雪の深さを尋ねけり
外の雪の様子を見たいのだけれども、その様子を見ることができない。だから近くのものにその様子を尋ねている正岡子規の一句であります。正岡子規は、幼い頃から病弱で結核を患っていました。34歳という若さで亡くなっていく子規の俳句は、人の命の儚さを教えてくれますが、私たちもいつか自分の力では外の様子を見ることができない日が来るのでありましょう。
では、その命の行き先を尋ねたならば、どのような場所が待ち構えているのでしょうか。
法然上人のお歌に
雪のうちに 仏のみ名を となふれば
つもれる罪ぞ やがて消えぬる
とあります。これは「降り積もる雪のように重ね続けている罪業も、阿弥陀様の名をとなえるならば、雪が光に解けるように、すぐに消えてしまいます」という意味です。
「雪のうちに」というのは、私たちが計り知れない昔から今まで重ねてきた罪が積もっていることを雪に例えています。仏教用語で「無始(むし)」というものがあります。これは「はじまりがわからないほど昔」という意味です。私たち人は、誰しも生死輪廻を永遠に繰り返してきているとお経に説かれています。その輪廻を繰り返す中で、煩悩を具え、それによって罪業が雪のように積もっているというのです。ですから、ただいたずらに過ごしていると、また輪廻を繰り返すというのが私たちの本当の命の行き先なのであります。
そんな私たちの命の行き先をお浄土へ向かわせてくださるのが阿弥陀様であると法然上人は仰せになっています。南無阿弥陀仏ととなえれば、過去世からの罪の報いを除いてくださり、西方極楽浄土へ往生させてくださる仏様が阿弥陀様であるとお示しです。また「やがて消えぬる」の「やがて」は次第にではなくて「すぐに」という意味ですので、一念一念にその功徳が具わっているのです。
ただし、罪が消えるといっても、法律的な罪がなくなるわけではありません。本来私たちが受けていかなければならない後世の報いを阿弥陀様は除いてくださるということです。
以前に『親が死ぬまでにしたい55のこと』(2010年出版)という本を読みました。そこには、お育て頂いた方が旅立つまでにしておきたいことの55の事柄が書かれています。その最初に紹介されているのが「親の方をもんであげる」という題で、当時36歳の男性の方がお父様を亡くされた時に感じたことが掲載されています。
その内容は、当時36歳の男性が、お父様が亡くなって遺品整理をしていた時のことでした。お父様の書斎の机を整理していると、引き出しから数枚の古い紙が出てきたそうです。その紙には、鉛筆で「かたたたきけん」と書かれていました。それは、36歳の男性が小学校低学年の時、お父様へのプレゼントしたものであったそうです。お父様はずっと大切に引き出しの奥にしまっていたのです。お母様に「珍しいものが出てきたよ」と報告すると、しきりと懐かしがり、当時お父様がこのプレゼントをとても喜んで「もったいなくて使えないよ」と答えていたことを知ったそうです。
この36歳の男性は、初めて聞く話に「胸が締め付けられる思いだった」といいます。大人になり、古い考えの父を疎ましく思っていたことに後悔をしたからです。色褪せた「かたたきけん」を見ていたら「父の笑顔がよみがえり、字がにじんできました」と書いてありました。
これは、人ごとではなく私たちもそのような後悔がありませんでしょうか?お育て頂いた親にさえも背を向けるような私たちの命の行き先は、一体どこなのでしょうか?
幾たびも 我が身の行き先 尋ねたら?
そんな私たちだからこそ救いの手を差し伸べてくださるのが阿弥陀様です。「こんな私ですが、お救いください。南無阿弥陀仏」と阿弥陀様におすがりをすれば、必ず私たちの罪の報いを雪解けのように滅してくださりお浄土へと往生させてくださるのであります。
どうぞ、春のお彼岸にはお墓参りをしていただき、墓前にてお念仏をおとなえください。
海福寺 瀧 沢 行 彦
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