願成寺メールマガジンのより充実そして何よりも継続のため、観智院の土屋正道上人の応援を仰いだ次第です。8月号より10回に渡って特別寄稿を頂戴いたすこととなりました。上人と仏縁をいただいたことが嬉しく思える、お会いいたして癒される上人の人柄に惚れてのお願いであります。ぜひともお読みいただき、人の輪に加わってほしいと思っております(願成寺住職 魚尾孝久)。
「じゃーねー。」「またねー。」5歳の息子が、山道を下りてゆく兵庫出身の小学校2年生と4年生の姉弟と祖父母の4人ずれに手を振って別れをおしんでいました。
8月初旬、信州上諏訪、唐沢山阿弥陀寺の念仏修養会でのことです。祖父観道上人が始めてから一年に一度、大正5年からですので、すでに80回以上の伝統があります。
親から子へ、子から孫へ、念仏の系譜が繋がって信者の方々も3世代目、4世代目の方もめずらしくありません。私の息子と兵庫の姉弟は同じ4世代目です。一年ぶりの再会を心待ちにして、虫を取ったり、水遊びをしたり、念仏の声響く中、朝から晩まで一緒に過ごしました。
下り道から振り返り、振り返り、手を振っていた4人ずれは、やがて足が隠れ、胴が隠れ、頭が隠れ、手先が隠れ、声も届かなくなりました。そのとき5歳の息子が4人が消えた方向に向かって深々と頭を下げたのです。私は驚き、感動を覚えました。
彼は私が見ていたことを知りませんでした。いや誰かに見られていたからやった行動ではなかったと思います。もちろん以前に誰かが教えたことかもしれません。あるいは大人が普段、見送る様子を真似たのかもしれません。昔は、人々が当たり前にやっていた行動で、驚くには値しなかったでしょう。それでも私が彼の行動に揺り動かされたのは、霊地唐沢で念仏の声の中に目撃したせいでしょうか?あるいは4代目同士の深い因縁を思ってのことでしょうか?
ひるがえて、私たちは見送られる時、見送る側の心情をどこまで思いやることができるのか。自らを振り返って甚だ疑問です。
作詞・作曲が小椋桂さん、歌手の中村雅俊さんが歌う「ただお前がいい」という歌の中に、
「また会う約束などすることもなく、『それじゃーまたな』と別れるときの、お前がいい」
という一節がありました。なにげない友人の別れの場面ですが、見送る側と見送られる側の心の通じあいがあってこその歌詞でしょう。
「念仏」は仏を念じることですが、実は「仏が私を念じ返してくださっている」という実感が得られれば、念仏を称えることは見えない相手への一方通行の呼びかけではなくなります。いや、私が忘れていても、実は「仏がいつも私を念じてくださっている」といいます。仏の本なる願い「本願」に気がつけば念仏せざるを得ないはずです。ところがいつもはそのことを忘れているのでした。
私が息子の見送る姿に心をゆすぶられたのは、息子の姿を通して、私に思いをかけてくださっている阿弥陀様のお心を感じたからだと思います。そしていつもご恩を忘れ、念仏を忘れている「自分」を反省させられたからではないかと思っています。
観智院 土 屋 正 道
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