エンジェルトランペット(願成寺庭)

                             

                             

 願成寺メールマガジンのより充実そして何よりも継続のため、観智院の土屋正道上人の応援を仰いだ次第です。8月号より10回に渡って特別寄稿を頂戴いたすこととなりました。上人と仏縁をいただいたことが嬉しく思える、お会いいたして癒される上人の人柄に惚れてのお願いであります。ぜひともお読みいただき、人の輪に加わってほしいと思っております(願成寺住職 魚尾孝久)。

 私がまだ20代後半の頃だったと思います。上諏訪での唐沢山念仏修養会終了後、Hさんとお孫さんを霧が峰、車山にお連れしました。Hさんは70歳を越えたご婦人です。念仏生活の中に、質素で倹約、正直で勤勉を絵に描いたような方でした。
 Hさんからいただく封書は、彼女宛に届いた封書を裏返しに仕立て直した封筒を使い、果物や野菜に張ってあったシールで封緘をしてありました。そんな無駄をしない方でしたが、毎年、修養会の時には中野善英上人の揮毫(きごう)を手ぬぐいに染めて、参加者の皆さんに布施されていました。

 8月初旬、霧が峰にはマツムシソウなど野草が咲き乱れておりました。Hさんは草花がお好きで、大変お喜びのご様子でした。お孫さんたちも大喜びで草原を駆け回っています。
 そのうち、
「正道先生、これは何という花ですか?」とHさんに聞かれ、
「ああ、これは○○○ですね。」と私は何気なく答えました。Hさんは各地で花を愛で、持ち帰れる植物は、ご自宅の庭で大切に育てられていたそうです。その日Hさん一行は、蓼科高原に泊まり、翌日岐阜県へお帰りになりました。

 しばらくして、Hさんからお礼の手紙が届きました。別便で、わざわざ私宛の手紙もあります。お礼の言葉に続き、次のように書いてありました。
「正道先生に教わった、あの植物の名前を、帰りましてから図鑑で調べましたが、違っていました。あなたは、これから人々に法を説く大切なお立場になられます。そのような方が、いい加減なことはいってはいけません。」
 私は恥ずかしさと、申し訳なさを感じると同時に、注意しにくいにもかかわらず、わざわざお知らせくださったHさんのご親切に深く感じ入りました。

 Hさんは、わずかなものであっても「自分の体験」を、正直にお伝えしていくこと。念仏の中に常に懺悔を忘れず、生活を正していくことを教えてくださいました。

 明年Hさんの7回忌を迎えます。念仏を称えながら、たえず体を動かし働いていらしたお姿が懐かしく思い出されます。いつも微笑みを浮かべた表情や、小さな身体ながら一つ一つに打ち込む所作に、偉大な輝きを感じさせていただきました。
 その姿勢は家風となり、娘さん夫婦、お孫さんがた、さらには曾孫さんがたにまで受け継がれています。もうお姿は見えませんが、Hさんの念仏信仰は確かに生き続けています。                          合 掌

                                 観智院  土 屋 正 道

 


 大学の講師をしているため、週に2・3回新幹線に乗って東京に出かける。通勤に乗る人はおおかた乗る車両座席も決まっている。私は、携帯電話を利用するのにデッキに出るため、3人がけの通路側に座るのが習慣となっている。

 その日もいつもの席に座っていると、小田原駅より乗ってきた20歳くらいの女性とその母親が隣に座った。早速アルミ箔に包まれたおにぎりを取り出して食べ始めた。朝の新幹線では手作りのおにぎりを食べる通勤通学は意外と多い。作りたてであろうか、温かさが見て取れる。同時に白いご飯のにおいと海苔の香り、鮭の臭いが漂ってくる。
 ところが、このにおいが問題である。隣に座る私は、食べ物の匂いを嗅がされるのは、多少ではあるが抵抗がある。空腹な時には羨ましくも思うが、空腹でもないときには、邪魔に感じるのは私だけであろうか。
 
 このこと以来、新幹線のなかの臭いが気になるようになった。喫煙車両の煙草の臭いなどは論外である。
 東京駅には何種類のお弁当が売っているのであろうか。数十種類はくだらないであろうが、そのなかで温かいお弁当は数種類でその販売量からすると微々たるものと思われる。
 もし、このお弁当がすべて温かいお弁当であったらどうであろうか。ちらし弁当を食べていると、右隣からは焼き肉のニンニクの効いたたれの臭い、左隣からはウナギの蒲焼きの臭い、前からはポタージュスープ、後ろからは鶏の唐揚げときたら、どうであろう。
 食べ物の匂いは、それを食べる人にとっては食欲をそそるものであるが、周りの人には必ずしも心地の良いものではないといえよう。ウナギ屋さんはみなウナギを、焼き肉屋さんはみな焼き肉を食べており、匂いを共通しているので問題がないのである。

 おおかたの駅弁が温かくないのには、理由があったのである。電車のなかという狭い空間で、不特定多数の人が隣り合わせて乗り、それぞれが勝手気ままなときに勝手気ままに食事をするのであるから、お弁当は温かくなくてよいのである。温かくなくても美味しく食べられる素材が選ばれ、味付けがなされているのである。比較的電車に乗ることが多いので、1000食以上の駅弁を食べて気の付いたことになる。

 時には温かいお弁当と考えたことがあったが、今は違う。冷たい駅弁のご飯にも親しみをおぼえるから不思議である。

 隣の親子が手作りのおにぎりを食べたからといって、「冷たいお弁当」に及んだわけではない。おにぎりを2つ食べ終えた娘が、つぎにお化粧をし始めた。ご飯、海苔、鮭、そしてファンデーションの臭いに翻弄されたからである。
 母親が注意するかと期待したが、親もまたお化粧である。東京に着くまでにきれい?に仕上がっていた。
 おかげで今月の原稿ができあがった次第である。

                         天主君山現受院願成寺住職                                魚 尾  孝 久

 

                         三島駅駅弁ベスト3

                         桜えびめし

                         奥駿河の磯ちらし

                         港あじ鮨

 


 

(前話は、願成寺ホームページ「メルマガお申し込み」のバックナンバーにあります。)

 桐壺更衣は、里に帰ると間もなく亡くなられてしまった。

 母北の方は、亡くなった我が娘をいつまでも留めておきたかったのであるが、限りのあるこのなので葬送の儀を執りおこなう。火葬のための葬列が出発をするその時、母北の方は女房たちの車に乗り込み火葬の場への同行を決行する*。郊外東山の火葬の場にたどり着き、作法しているところみた母親の気持ちは、いかばかりであったろうか。

 母北の方は、「亡骸(なきがら)を目の前にしても、どうしても我が娘の死を信じられないので、火葬されて灰となるところを拝見いたしまして、もう我が娘はこの世には亡き人と自分に言いきかせたく同行いたしました。」と、気丈におっしゃるが、車から落ちてしまいそうになる。やはり我が娘の火葬を目の前にすることはあまりにも無理であると、女房たちは苦慮している。

 母北の方の車が用意されていなかったことは、本来は母親は葬送には参加しないことを意味する。逆さまを見た場合(子供が親より先に死ぬこと)には、親は葬列に参加しないという習慣からである。愛するわが子を火葬や土葬するところを目の前にするのは、あまりにも酷であるというところから発生した習慣であろうことは想像に難くない。今日でも時には耳にすることがある。

 室生犀星の「忘春詩集」に「靴下」という詩がある。
 
   毛糸にて編める靴下をもはかせ
   好めるおもちゃをも入れ
   あみがさ わらぢのたぐひをもをさめ
   石をもてひつぎを打ち
   かくて野に出でゆかしめぬ

   おのれ父たるゆゑに
   野辺の送りをすべきものにあらずと
   われひとり留まり
   庭などをながめあるほどに
   耐へがたくなり
   煙草を噛みしめにけり

 長男を失った時の感情を静かに述べている。子供を送り出し自宅の庭にたたずむ父が、煙草を噛みしめひたすらに耐える姿が描かれている。やはり、父親は葬送には加わってはいないのである。

 強引にも火葬の場までおもむいてしまった母北の方、自宅に留まり耐えがたくなり煙草を噛みしめる犀星、ともに我が子を亡くした親の心情を思うに、悲しみを共有させられてしまうのは私だけであろうか。        (つづく)

  * 平安時代には、すでに僧侶や貴族たちには火葬がおこなわれていた。

                             天主君山現受院願成寺住職                                 魚 尾  孝 久

 


 ラジオが唯一の情報源であった時代から、新聞やテレビが加わり、小学生までがパソコンや携帯電話を利用している時代となった。ひと昔前の学生の楽しみというと麻雀とお酒が定番であったが、町から雀荘が消え泥酔した学生の姿は少なくなった。これも学生たちの娯楽に選択肢が増えたからであろう。世の中はあらゆる選択肢が増え、情報のアイテムが氾濫し、多様性の時代といえよう。

 教化活動の基本としては、葬儀や年忌法要を始め、修正会、彼岸法要、施餓鬼会、十夜法要と、あらゆる法要での説法であろう。印刷技術の発達によって掲示板伝道、文書伝道ハガキ伝道がおこなわれるようになった。拙寺でも「ハガキ伝道」や「テレホン説法」の経験があり、教化活動も多様化してきたなかで、時代のニーズにあった教化活動の一つとして、「 願成寺メールマガジン 」と名付けてメールマガジンを発行することにした。

 寺院という特質から、教化の対象となるのはお年寄りという現実は否定できない。また檀信徒全体からすれば、どれほどの人が、インターネットを利用しているかと考えるとその効用ははなはだ微少と思われるが、新しい形での教化活動として実験的に発信することにした。

 インターネットによるメールマガジンの配信は、お寺に足を運ぶことの少ないあらゆる世代の皆さまに語りかけることができるであろう。また拙寺のお檀家さま以外の皆さまとも、お寺とのつながりを持たせていただく方法としては最良と考えております。

 毎月一回とは申せ、浅才なわたくしにとってはかなりの重圧となっていくであろうことは想像にかたくない。三回で中止するわけにもいかず、発信を決意するのに一年もかかった始末である。

 諸大徳の応援をお願いいたしながら、皆さまとの交流の場としていきたいと存じます。よろしくお願い申しあげます。


                          天主君山現受院願成寺住職                                魚 尾  孝 久

 

 

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▼ 文学講座のお誘い
 願成寺公開文学講座といたしまして、『源氏物語』を読んでおります。写本(青表紙本、新典社刊)と活字本とを対校しての講読ですが、参加者全員で声を出しての読みますので初心者の方でもご自由に参加いただけます。
 現在、「須磨」の巻に入ったところで、朧月夜との事件から都に居られなくなった光源氏が、須磨へと旅立つところです。
 ご一緒に、光源氏とともに須磨への旅を始めましょう。

開催日
 毎月 第1,3土曜日(変更あり)
開催時間
 10時〜11時30分
場所
 願成寺庫裡
費用
 無料(教科書はお求めいただきます。 1000円〜2000円)
申し込み
 電話、FAX、E-mail

※ご参加をご希望の方は、檀家、非檀家を問わず、どなたでもご参加いただけます。

 

十夜法要のご案内

 本年もお十夜の季節となりました。一日ではありますが、ご先祖のご供養とともに、み仏の教えにふれますよい機会ともいたしたく存じますので、お誘いのうえお申し込み下さい。
 お檀家の皆さまには、10月下旬に郵便にてご案内申しあげます。

日   時
11月21日(日)13時より
会   場
願成寺 本堂
塔婆供養料
3,000円
申 込 み
電話、FAX、E-mail (前日までに)

 

暮れの墓地大掃除のお知らせ

 毎年12月の第2日曜日は、暮れの墓地および境内地の大掃除となっております。お忙しい折とは存じますが、ご家族でご参加下をお願いいたします。当日は「温かい豚汁」を用意いたしておりますので、お掃除終了後お召し上がり下さい。

日   時
12月12日(日)9時より (小雨決行)
お 願 い
できますならばお掃除の道具をご持参下さい。
駐車場が少ないのでご注意下さい。

 


お 願 い

 今まで、お塔婆や香花等は、寺にて焼却しておりましたが、法改定により、平成14年12月1日から「野焼き」や「簡易焼却炉」によります、すべてのごみ等の焼却ができなくなりました。現在、願成寺にあります3基の焼却炉もすべて使用禁止となり、撤去いたしました。
  したがいまして、今後、墓参の折いらなくなりましたお花などのゴミにつきましては、下記のごとく、ご処理をいたしたく存じますので、ご理解とご協力をお願い申し上げます。


ゴミの分別

 ゴミは、次の4種類に分別してお出し下さい。

「燃えないゴミ(ビン・カン)」
市のゴミに出します
「土に返すゴミ(花・香花)」
寺にてチップにして土に返します
「土に返すゴミ(草・落ち葉)」
寺にて土に返します
「燃えるゴミ(紙・ビニール)」
市のゴミに出します

いらなくなりましたお塔婆は、寺にてチップにして土い返しますので、ゴミ箱の脇にお置き下さい。
ゴミ箱は水屋(水道)の近くに用意いたします。
飲物や食べ物は、動物が散らかしますので、お参りの後はお持ち帰り下さい。
お手数をおかけいたすことばかりでございますが、ダイオキシンをなくし、きれいな地球環境のため、切にご理解とご協力をお願い申し上げます。