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桐壺更衣は、里に帰ると間もなく亡くなられ、送葬の儀がおこなわれた。
宮中より勅使がきて、「三位(みつ)の位(くらい)」を贈る宣命が読みあげられると、また悲しみが一層ますことであった。桐壺更衣が生きているうちに、女御と呼ばせなかったことを心残りに思われての追贈であった。
後宮では更衣という低い身分であったがためにつらい思いをさせていたので、第二皇子(光源氏)を産んだことによって女御への昇進を考えていたのであるが、機会を得ぬままになってしまったのである。いまとなって帝にできることは、ひときざみの昇進だけしかなかったのである。
それにつけても他の女御や更衣たちが憎むことであった。
帝は三位の追贈よりも、更衣の里へ飛んでいって最期の別れをしたいのであろうが、帝という地位はそれを許さない。帝が目下の者の葬送に参加することを認めないからである。
まわりの者たちはどうであったろうか。ものの道理をよくわきまえている者たちは、更衣の顔立ちの美しかったこと、気だてが穏やかで憎めない人であったとお思いになっている。「あるときは ありのすさびに 憎かりき なくてぞ人は 恋しかりける(生きているときにはなおざりにして憎く思ったが、亡くなってしまうと恋しく思われる。)」という歌は、このようなときのことを詠んだのであろうか。
はかない日が過ぎて七七日の法要(49日の法要)にも、弔問の使いをだして丁重に弔せるのである。日にちが経つほどにどうしようもなく悲しさがつのり、ほかの女御や更衣たちを近づかせることもなく、ただただ涙にくれる毎日であったので、帝を拝する者も涙がちの秋であった。
東宮の母親である弘徽殿女御だけは、なお「亡くなった後まで、気をもませる帝のご寵愛であるなあ」と、遠慮なくおっしゃるのであった。
帝は東宮をご覧になるにつけても、里に帰ってしまった若宮(光源氏)が恋しく思われ、親しい女房や乳母を里に遣わし若宮のご様子をお尋ねになられた。
やはり、帝が若宮に会いにいくことは許されないことはいうまでもない。 (つづく)
【追贈】 死後に官位・勲章などを贈ること。
天主君山現受院願成寺住職 魚 尾 孝 久
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