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光源氏は、母親である桐壺更衣が亡くなったことによって、里に帰っていた。
月日が経って、桐壺帝の希望により光源氏は宮中にかえられた。その姿はあまりにも気品に満ちているので、人々は不安を感じた。
翌年の春、東宮の決定には光源氏とも思われたが、後見となる人もなくまた世間の承知することではなかったので、そのような気配すらお見せにならなかった。帝があれほどまでお可愛がりになっておられたので、ひょっとするとの噂もあったのだが、第1皇子が東宮となられ弘徽殿女御も安心されるのであった。
桐壺更衣の母君北の方は、娘を失った悲しみを慰める方法もなく沈まれて、娘の所へ行きたいと願ったためであろうか、ついに亡くなられてしまわれた。このときには光源氏は6歳であったので、母親の亡くなったときと違ってよく物事がおわかりになり、恋い慕ってお泣きになる。
光源氏が7歳になられると、読書始めなどがおこなわれる。世に類ないほどの聡明さに帝は恐ろしささえ感じられた。学問は申すに及ばず琴や笛の音におかれても宮中を驚かすものであった。
ちょうどそのころ、高麗人の相人(人相見)が来朝していたので、この光源氏をみてもらうため、鴻臚館(こうろかん外国使臣の宿泊所)遣わす。宇多天皇の誡め(寛平御遺誡)に、外国人を宮中に入れてはいけないとあったからである。若宮を外国の人相見にみさせることもさしさわりがあるので右大弁の子としてお連れすると、人相見は何度も首をかしげて不思議がる。「将来は国の親となって帝王となる相がおありになる方であられる。ですが、帝となられると世の中が乱れることがあるかもしれません。」という。
帝はすでに倭相(やまとそう)にて承知しておられたことであったので、光源氏を親王としての宣下をなさらずにおられたことを確信する。
無品親王で後見の人々もないまま漂わすわけにもいかず、またわが治世も何時までもあるとは思われないので、臣下として朝廷の補佐となることがよいことと決心される。ますます学問の道を習わせになる。
宿曜の道の人にも同じ答えを申しうけ、臣下とされた。源氏という姓をあたえられ、光源氏の誕生である。
【宿曜】(すくよう) インドに由来する天文暦学。宿曜経を経典とし、星の運行を人の運命と結びつけて吉凶を占う。古く中国に伝わり、仏教に伴って日本に輸入され、平安中期以降広く行われた。「広辞苑」
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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