「ねえ、テレビの占い見てる?」
「え?見てないよ。」
「ぼくは毎日見てるんだ。」
「ふーん。そうなんだ。」
6歳の息子と、13歳の姪が車の後部座席で話しています。
「チョット、どーなのよ?」と驚かれる方もいらっしゃると思いますが、我が家では毎朝、テレビの「今日の占い」を見て一日が始まります。正直いいまして私も妻と結婚当初は、非常に違和感がありました。彼女は占いを信じるようなのです。
私は日の吉凶、方角の良し悪し、字画の多い少ないなど、全く気にしません。彼女の行動や考え方が理解できず、最初は不機嫌になりました。
「こういう迷信と戦うのが念仏僧の使命だ!」などと息巻いておりました。ところが最近は娘、息子も「占いの信者」ですから形勢が悪い。私も黙っておとなしくしています。
世の中は、マジックブーム、占いブームのようで、毎日のように「予言者」がテレビに登場します。「星がイイ」とか、「背後霊がワルイ」とか、「今年の運勢はクダリぎみ」とか結構話題になっているようです。占いのテレビ番組が増えたり、占いの本が売れたりするのは、「不信」の時代にあって、何かを「信じたい」という人々が増えているからかもしれません。迷い多き私たちですから、何かに頼って生きたいと思うことも無理からぬことでしょう。
そんな時代ですから、念仏をもっと宣伝しなくちゃいけませんね。念仏申す人は幸せです。「念仏申すものはいかなるものも救う」という本願にすがり、ただ「南無阿弥陀仏」と申すだけです。それだけなのに日の吉凶も、方角の良し悪しも、字画の多い少ないも気にならなくなってまいります。「仏様にお任せ」ですから思い悩むことも少なくなってくるのではないでしょうか。まさに現益です。
先日、ある方に質問されました。
「善悪についてどう考えたらいいのでしょうか?善いのか、悪いのか判断ができずに思い悩むことがあります。」そこで、親鸞上人のお言葉をお伝えいたしました。
本願を信ぜんには、他の善も、要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに
悪をもおそるべからず、弥陀の本願を、さまたぐるほどの、悪なきがゆえに
私たちには本当の善悪は判断できません。ただ阿弥陀様の本なる願いを信じて、念仏をお称えしましょう。そのほかのどんな善も必要ありません。どんな善も念仏に勝る善は無いのですから。また悪をも恐れることはありません。どんな悪も本願を妨げるほどの悪は無いのですから。
しかし昔から占いや祈祷が気になる方がいたのですね。法然上人もある人に尋ねられました。
「念仏申す人が、物詣で(社寺におまいり)することはいかがでしょう?」
「問題ありません」さすが法然上人です。「やめろ」とか「意味がない」などとはおっしゃいませんでした。「念仏を申す」ただ一点をお説きになり、そのほかのことにはきわめて融通無礙でいらっしゃいました。それが老若男女、すべての人々に受け入れられる秘訣だったのかもしれません。
私も当分の間、テレビの占いを見る、母親と子どもの顔を眺めてみることにしました。もちろん食事のときは念仏を称えて、刷り込みを忘れないようにしています。いつの日か、吉凶や善悪を超えた、如来の本願を信じてくれることを祈念しています。
合 掌
観智院 土 屋 正 道
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