今月号より、佐多芳彦先生(東京大学史料編纂所学術研究補佐員、大正大学非常勤講師)に特別寄稿を頂戴いたすこととなりました。先生は「有識故実」がご専門で、このたびは特に寺院の建築や調度、さらには肖像画と服装につきましてお教えいただきます。(願成寺住職 魚尾孝久)。
関東甲信越も梅雨があけ、本格的な夏がやってきました。
夏になるとひとつ思い出すことがあります。小学生の低学年の頃だと思うのですが、鎌倉にある菩提寺での思い出です。盛夏の午後、両親に連れられてそのお寺に行きました。両親はそこの住職さんと奥の広間でなにか話をしていて、僕は退屈していたのだと思いますが、薄暗い本堂の中を探検していました。見慣れない調度や家具、法具が面白くて仕方なかったのです。しかし、その本堂の暑いこと!そこで偶然しゃがみこんだ僕は大発見をしました。縁の下のある日本建築ではなく、方形の石版を敷き詰めた石畳のような床がとてもひんやりとしていたのです。その硬質な、そして意外なほどの冷たい感触をとてもよく覚えています。
さて、現在、多くのお寺の本堂は縁の下のある、畳が一部もしくは部屋の床一面に敷き詰められた座敷のような住宅建築です。しかし、よく気をつけてみていると、僕が見た石板を敷き詰めたような床の本堂を持つお寺も多いことに気がつきます。民家の土間のような印象を受けます。縁の下のある床と石板を敷き詰めた床、そこにはどんな違いがあるのでしょう。そしてその違いにはどんな歴史があるのでしょう。
日本にもたらされた仏教とその信仰の原点であった中国や朝鮮半島の寺院の建物の床はすべてが石板をしきつめたものでした。これは寺院に限ったことではなく、皇帝や王の宮殿も同じで、人のたくさん集まる公的な意味合いの強い場所はこうした石畳の床で作られたのです。おそらく仏教が請来された当初の日本の寺院もこうした中国や朝鮮半島の国々の寺院を手本としたのです。日本でも寺院ばかりではなく政治の中心であった天皇の宮も石板を敷き詰めた床でした。これが平安時代の初期ごろでしょうか、縁の下のある床の建物に変化していきます。天皇の住まいであった内裏、貴族の住まいも縁の下のある建物へと変化しました(こうした貴族の住まいは「寝殿造り」と呼ばれています)。寺院建築も同様の変化を遂げたと考えられるのです。高温多湿な日本の風土に適応するための変化、あるいは神社建築の影響など諸説があるようですが、要するに中国的、朝鮮半島的な文化が日本的なものへと変化したということでしょうか。
ですから、現在、寺院の本堂に縁の下のある床と石板を敷き詰めた床の両形式がみられるのは、意識してか、あるいは無意識なのかはわかりませんが、古いタイプの寺院建築と新しいタイプの寺院建築が混在していることになります。ただし、こうした寺院建築の変化の中で例外があります。それは、鎌倉時代、中国からもたらされた臨済・曹洞宗、二流の禅宗と、同じく中国から江戸時代にもたらされた禅宗の一流、黄檗宗の寺院建築なのです。次回はこうした禅宗寺院の建築についてお話しようと思います。
東京大学史料編纂所学術研究補佐員、大正大学非常勤講師 佐
多 芳 彦
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