知恩院大殿
知恩院大鐘楼
|
|
謹賀新年
新年、明けましておめでとうございます。
さて、「願成寺メールマガジン」も足掛け3年目を迎えるにあたりまして、より充実したメルマガを目指しまして、朔日(ついたち)と月15日の2回の発行をいたすこととなりました。ペンのすすまぬ拙僧にとりましては、かなりの重圧とも思えるのですが、体が思うようになりますあいだにと考えますと、奮起いたしまして自らに課して参ることといたしました。何とぞ、皆さまのご支援をお願い申しあげます。
月2回の発行に当たりましては、観智院の土屋正道上人に、再びご登場をお願いいたしました。ご上人は、昨年10月にはご自坊の観智院のご住職に晋山されたばかりでご多忙のことと存じますが、快くお引き受け下さいました。どうぞご期待下さい。
さて、今年は「戌」歳ですが、どのような歳となるでしょうか。みんなにとって良い年になりますようにと、心から祈念申しあげるのですが、具体的には何をしたらよいのかとなりますと、そう簡単には答えが出てきません。社会の、家庭の、おのれの中で正直に生きることが肝要と思っております。仏さま、お天道さまには嘘は通用しません。何よりも自分自身は、誤魔化したことを承知しているのですから。
でも、時には弱い自分が頭をもたげることが、あるのかも知れません。そんな時に支えて下さるのが、仏さまであり、家族なのではないでしょうか。
ところで、我が家の犬も二度目の「戌」歳を迎え、心なしか晴れがましいようです。犬にまつわる言葉を考えてみますと、「犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ」と、犬の忠義を讃えることわざがあります。
一方、「犬の遠吠え」「犬に論語」と、犬にとっては芳しくありません。そんななかに「犬の糞説教」というのがあります。他人の説教を盗用して、あたかも自分が考えたようにいうことで、比叡山の説教の名手であります仲胤僧都が、『宇治拾遺物語』のなかで誡めております。
今年の用心といたして参ります。本年もご指導のほどよろしくお願い申しあげます。
しん‐ざん【晋山】
「晋」はすすむこと、「山」は寺院を示すことから、僧侶が新たに一寺の住職となることをいう。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
|
第6回 「正月と書初め」
新年、あけましておめでとうございます。
本年も今回をふくめてあと5回、どうぞよろしくお願い申し上げます。
この原稿を書いている今、私は大阪府のホテルの一室にいます。数日前からの寒波で身にしみるような寒風の毎日、加えてここ2・3日は雪です。真っ白い街並みをみるのは大好きなのですが、寒いのは・・・どうも苦手です。
さて、皆さんはどんなお正月をすごされますか?
やはり、新年にあたって何かお正月の特別な行事をされますか?今回はお正月ですから「新年」にちなんだ話をいたします。
我々の生活の中にあるお正月のさまざまな風景。そこで行なわれるお正月の儀礼と遊び。その多くは中世の庶民や武士の家々で行なっていたものに起源を求められるものが多いようです。貴族社会のものはほんのひとつまみといってもいいでしょう。
たとえば「書初め」です。新春にあたり、気を引き締めて真っ白い半紙に向かい、吉祥を呼ぶような言葉やこれからの一年間に対する意志を文字にしてその年、一番初めの文字を書く、というものです。地方や時代によって大同小異はあるでしょうが、だいたい、日本中、どこへ行ってもほぼ同じような内容でしょう。新春一番の儀礼のひとつです。
この書初めは意外に複雑な起源をもっていて、しかも数少ない貴族の儀式に端を求められます。では、少しづつ現代から時間を遡っていきましょう。
@「判始(はんはじめ)」
これは江戸幕府で正月三日に行なわれた年頭の政務(行政関係の事務)始で、将軍の補佐役であった老中(ろうじゅう)が公文書に署名をするものでした。新年の業務が始まったことを幕府内外に伝える意味があったと考えられます。この行事が書初めの起源という説があります。
Aまた、この儀礼は「吉書始(きっしょはじめ)」とも呼ばれます。
鎌倉時代以来の幕府で行なわれてきた儀礼です。特に室町幕府で整備が進み、正月二日に将軍が神事・勧農・貢納の三か条を記した吉書(きっしょ)に花押を押すというものでした。これが江戸幕府の正月三日の「判始」へと変化したのです。吉書とは吉日を選んで、幕府では将軍、朝廷では天皇など、組織の最上位の人に部下が承認をもらう文書のことです。
この儀礼が武家社会を中心に広がり、書初めの起源となったという考え方です。
B「吉書始」は貴族社会でも行なわれていました。
貴族社会では「吉書奏(きっしょのそう、きっしょそう)」と呼ばれていますが、内容はAと同様です。源頼朝が鎌倉幕府を開いたとき、京都の貴族社会、朝廷の多くを模範に政治を行なったのですが、そのときに「吉書奏」も継承されたのでしょう。
これらを考えると、B→A→@という順序で現代に受け継がれてきたことになります。また、書初めにはもうひとつの意味があります。それは@〜Bいずれも「吉書」に「署名をする」ことが儀式ですが、この署名をできるのは社会的に成人、すなわち、おとなであることが前提です。Aと関連性が強いのですが、中世以来、武士の家々でもこうした「吉書始」のような儀礼が行なわれ、正月の吉日に一家の長男が署名をすることでその長男が成人していること、ひいてはその長男を頂に家の一年の安泰を祈るようになったと推測されているのです。
こうした歩みを経て、明治時代になり、武士身分は消えていきますが、年頭に署名をするという儀礼は平民になった武士を通じてひろく人々に行なわれるようになりました。そして近現代、「書初め」の習慣が定着して今に至るのです。
長きにわたって述べてきましたが、このほかの儀礼、鏡開きやカルタ取り、そして、羽子板や独楽回し、門松など、正月にまつわる儀礼や品々には実にいろいろな起源をもつものがあります。そしてそれぞれには何百年もの歴史があるのです。
東京大学史料編纂所学術研究補佐員、大正大学非常勤講師
佐 多 芳 彦
|
|
正月11日の具足飾り
古風な武士の家の祝儀飾りです。具足とは甲冑のことで、この写真では、兜を松竹梅の作り花を飾り、足のある高杯(たかつき)や三宝に鏡餅、折敷には酒肴などを飾りました。現代の正月飾りと共通するものが少なくなく、私たちの正月飾りが実は武家風のものが多いと感じる例の一つです。
宝船(『守貞漫稿』より)
正月2日、宝船の絵を枕の下に敷いて寝て、新年の幸福を祈るといいます。七福神に米俵、大判小判に鶴亀とめでたいもの尽くしの図柄です。ちなみに私はまだ試してみたことがありません。
「初春路上之図」(『東都歳事記』より)
江戸時代の正月、江戸日本橋の風景。橋の上には新年の初登城(諸大名の新春の将軍への挨拶)の帰り道だろうか、大名行列が見える。橋の欄干には注連飾りがかけられ、橋のたもとの店々には注連飾り、繭玉などが飾られている。空には凧が上がっている。現代に通じる正月の風景がこの絵には見えます。天保9年(1838)に刊行された『東都歳事記』には一年の歳事が事細かにていねいな挿図とともに載っています。文章も面白いのですが、その指図がみるたびに発見があるような精密なものです。「東洋文庫」(平凡社)には原作が、川田壽氏の「江戸風俗 東都歳事記を読む」(東京堂出版)には見所をやさしく解説したものが出ています。
|
ラジオが唯一の情報源であった時代から、新聞やテレビが加わり、小学生までがパソコンや携帯電話を利用している時代となった。ひと昔前の学生の楽しみというと麻雀とお酒が定番であったが、町から雀荘が消え泥酔した学生の姿は少なくなった。これも学生たちの娯楽に選択肢が増えたからであろう。世の中はあらゆる選択肢が増え、情報のアイテムが氾濫し、多様性の時代といえよう。
教化活動の基本としては、葬儀や年忌法要を始め、修正会、彼岸法要、施餓鬼会、十夜法要と、あらゆる法要での説法であろう。印刷技術の発達によって掲示板伝道、文書伝道ハガキ伝道がおこなわれるようになった。拙寺でも「ハガキ伝道」や「テレホン説法」の経験があり、教化活動も多様化してきたなかで、時代のニーズにあった教化活動の一つとして、「
願成寺メールマガジン 」と名付けてメールマガジンを発行することにした。
寺院という特質から、教化の対象となるのはお年寄りという現実は否定できない。また檀信徒全体からすれば、どれほどの人が、インターネットを利用しているかと考えるとその効用ははなはだ微少と思われるが、新しい形での教化活動として実験的に発信することにした。
インターネットによるメールマガジンの配信は、お寺に足を運ぶことの少ないあらゆる世代の皆さまに語りかけることができるであろう。また拙寺のお檀家さま以外の皆さまとも、お寺とのつながりを持たせていただく方法としては最良と考えております。
毎月一回とは申せ、浅才なわたくしにとってはかなりの重圧となっていくであろうことは想像にかたくない。三回で中止するわけにもいかず、発信を決意するのに一年もかかった始末である。
諸大徳の応援をお願いいたしながら、皆さまとの交流の場としていきたいと存じます。よろしくお願い申しあげます。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
|
|
|