"スイスイ スーダラダッタ スラスラ スイスイスイ………わかっちゃいるけど やめられない"という「スーダラ節」。中高年の方の中には、おぼえていらっしゃる方も多いと思います。スーパーノー天気サラリーマン「平均(たいらひとし)」役の植木等さんが歌っていました。植木さんはクレージー・キャッツというバンドの一員ですが、元来とてもまじめな性格で正統派歌手を目指していたそうです。彼は「スーダラ節」の歌詞を始めて手渡されたとき、軽薄な歌詞に怒り悩みました。実は彼の父親は、浄土真宗の寺の住職、植木徹誠という方です。戦前より被差別部落解放運動、戦争反対運動で有名な社会活動家だったそうで、植木等さんの芸能界入りに反対していました。ところが徹誠上人は「スーダラ節」の歌詞を見て、
「スーダラ節は親鸞の教えにあっている。"わかっちゃいるけどやめられない"とは人間の真の姿だ」といって息子が歌うのを喜んだということです。
法然上人の弟子、親鸞上人は北陸に流されたのち、関東地方に念仏の教えを広められました。ある日のこと高熱でうなされ、経典の文字が次々に浮かんでくる夢をご覧になりました。「自分は法然上人の御言葉にしたがい、難行を捨て念仏のみと誓ったはずなのに、また繰り返そうとしている」そして目が覚めたとき上人は「まは さてあらん」(ああ、そういうものなのだ)「人間はわかったつもりでも、やめることができない。自らの計らいを捨てきれない。あるがままで一切を仏に任せるしかないのだ。」とおっしゃったそうです。
戦乱、疫病、天災地変。荒廃する世の中で、「仏の救いに差別なし」と説く法然上人のもとを多くの人々が押し寄せ念仏の信者になりました。その中に盗賊の耳四郎がおりました。彼は法然上人の庵に忍び入り、上人の説法を聞いて「オレのような非道なものも救われるのか?」と驚き、入信して弟子になってしまったといわれています。
ところが耳四郎は念仏申しながらも盗み癖が止まなかったというのです。「念仏者ともあろうものがぬすみを繰り返すとは!」当時、「念仏さえ申せばなんでもアリだ」とあえてふしだらな悪行を繰り返す人がいて、人々の怒りを買っていました。ですから耳四郎もまたそのような悪人と思われ「あいつのような輩が念仏弾圧を招く!」と憤慨する信者たちがいたのです。そしてとうとう彼を亡き者としようと、ある信者の一人が彼を飲み屋に誘い出し、たらふく酒を飲ませました。耳四郎は友の歓待に日頃の悩みを忘れて大いに喜び、ついに寝入ってしまいました。そのときです。彼に酒を振舞った男は刀を引き抜いて耳四郎に振り下ろしました。ところが刀が耳四郎を
両断しようとした刹那、彼は仰向けにひっくり返ってしまったのです。良く見ると耳四郎は金色の弥陀でありました。そしていびきまでが念仏の声だったといいます。彼を殺そうとした男は胸打たれ、耳四郎に謝ったということです。耳四郎は涙ながらに答えました「友よ許してください。わたしは念仏申し、自分の非道がわかっているのに、盗みをやめることができません。もう私自身が信じられない。阿弥陀様に頼るほかに道がありません。なむあみだぶつ……」耳四郎は「助けたまえ」と一心に救済を求める信仰の人でした。内面の苦しみは彼の形相を恐ろしいものとして、誰も彼に近づく人もなくなりました。そんな耳四郎も晩年、盗み癖が収まったといわれます。しかしそのために衣食住に窮し都を離れ、相模の国で一生を閉じたと伝えられています。
善人(計らいをしてしまう人)が往生が叶うのであるから、まして悪人(計らいをできずすべてを任せる人)はなおさらのことである(必ず往生させていただける) (悪人正機)
阿弥陀様は、"わかっちゃいるけど やめられない"方をこそ救いの正客となさっていらっしゃいます。自分を「善人だ」と思いこんだり、「どうせできないさ」と開き直るだけでは申し訳ありません。自らの「悪」を見つめながら、耳四郎に習い、真実の人とならせていただけるよう、念仏申してまいりましょう。 合掌
観智院住職 土 屋 正 道
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