毎朝、今年7歳になる息子Nをバス停まで送っていきます。おかげさまで短い距離ですが、散歩を楽しんでいます。行きかえりに増上寺の境内を横切りますので、本堂の前で手を合わせ「今日もよろしくお願いします。南無阿弥陀仏」と称えます。バスを待っている間、Nはレンガで道に線を書いたり、ダンゴ虫を観察したりしています。やがてバスがやってきますと「Nちゃん、いってらっしゃい。気をつけてね。」とほっぺたをなぜながら声をかけ、ドアーが開くと「おはようございます」と運転手さんに挨拶をします。Nはいつも運転手さんのすぐ後ろの席に座り、私に手を振ります。私もそれに応えて手を振ります。バスの扉が閉まり発車、バスが見えなくなるまでずっと手を振って見送るのが日課です。
今の今までいっしょにいて、話をしていたNはバスと共にいってしまいます。もう跡形もありません。時々「なんて不思議なんだろう」と思います。そして「もうコレっきり会えないかもしれない」とさびしい気持ちになったりもします。そんなときは「Nちゃん仏様が必ず守ってくださるからね」と声を出しますと、少しは元気を取り戻せるようです。
ある日、Nは頭をぬらして玄関に入ってきました。小学校の帰りに雨に降られたらしく、帽子を手に握っています。
「Nちゃん。おかえり。ぬれちゃったね。どうして帽子かぶってこなかったの?」
息子は当然というように
「だって帽子がぬれちゃうでしょ。」といいます。逆転の発想が面白いですね。
「そうか!でも今度からかぶっておいで。頭がぬれてカゼひくよりいいよ。」といいました。ところが次に彼がいった言葉に驚きました。
「すぐそばまで、知らないおにいさんが傘に入れてきてくれたから、大丈夫。」
「え!知らない人に声をかけられても、ついていっちゃだめだよ。」どうやら、近くの中学生がぬれている息子に傘に入るように勧めてくれたらしいのです。
「もし車に乗っていこうと誘われたらどうするの?」と聞きますと、
「『いいです。いいです。』といって絶対に乗らない。」と少し不満そうにいいます。彼なりに安全と判断したと言いたかったのでしょう。私も息子の安全を心配するあまり中学生の親切に感謝することを忘れていました。
「そうだね。親切なお兄さんにお礼をいいたいね。どこの学校の人だかわかる?」特徴を聞き出して、近くのS中学にお礼の電話をしました。
地域社会が崩壊し、連日凶悪犯罪が報道されています。私たちは他人を寄せ付けず、善意を悪意とかんぐって行動するようにさえなっています。だんだんと親切な行動をすることや、挨拶することさえ「自粛」する人が増えているようです。そして「自己責任」とか「自分のことは自分でする」ということがもてはやされ、「たすけあい」とか「おもいやり」という言葉が語られることが少なくなっています。「情けは人のためならず」という言葉が「情けをかけることは、その人の自立を阻害し、ためにならない」と誤解している人も増えました。まことに「情けない」はなしですね。
「おたすけください!!」と名前を呼ぶものは必ず救うぞ。とお約束くださった如来様は親切の親玉です。ただ「南無阿弥陀仏」とお称えすれば、いかなるものも極楽に往生がかなうといいます。なんのために極楽に行くのでしょう。善導大師は次のようにおっしゃいます。
彼の国に到り已(おわ)って 六神通(ろくじんずう)を得て
十方界に入(かえ)って 苦の衆生を救摂(くしょう)せん
虚空(こくう)法界尽(つ)きんや 我が願も亦 是の如く
ならん
かの極楽国に到りおわったらば、修行し六神通力を獲得して すべての世界に帰り入って 苦しむ生きとし活けるものを救済いたしましょう。大宇宙は限りが無いように わが願いも、そのようになるでありましょう。
そうです。極楽で修行を成就して、仏様になって戻ってくる。そして衆生の苦しみ悩みを救うことを願われているのでした。
祖父観道上人の師匠、中島観しゅう(おうへん(王)に、ひいでる(秀))上人(後の百万遍知恩寺法主)は、
「たすけたまえ 南無阿弥陀仏 たすけたまえ 南無阿弥陀仏」と悲痛なまでのご様子で、念仏・五体投地をしながら、時折、次のように声に出して祈られたそうです。
わが姿を見んもの、わが声を聞かんもの、ことごとく
往生を得せしめん
どうか阿弥陀様、私をおたすけください。往生がかなうならば必ずや仏となり、わたしを一目見た人、一声聞いた人をことごとく往生させずにはおきません。
息子の平安を祈るだけでは申し訳ないですね。私もまた「仏となる願い」をもって、ひたすら仏の名前を呼ぶ人になりたいものです。それでこそ、かわいい息子を私にお託しになられた仏恩に報いることになりましょう。
「Nちゃん。今日も元気に目が覚めてよかったね。仏様によろこばれる子になろうね。」 合掌
観智院住職 土 屋 正 道
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