他人に自分の考えをしっかりと伝えることの難しさ、特に微妙なニュアンスの違いを、自分の意図するよう伝える事って難しいですね。
昨年、浄土宗に縁のある学校の高校三年生が大本山増上寺で一日研修会を開いた時に、私は約100名の男女生徒の前で1時間お話しをさせて頂きました。その数日後、ある生徒さんがその日の感想を校内報に書いてくれていて、たまたま知人に「あなたの事が書いてあるよ」と見せて頂き、それを読んでちょっと自分の思いとの違和感を覚えたのです。
そこには「後藤上人というお坊さんのお話を聞きました。後藤上人は"宗教はたしなむ位がちょうどいい"というお話をしてくれました」とだけ書かれていました。
確かにそういう話はしましたし、その生徒さんは素直に一番心に残った事を感想として書いたのでしょう。
でもそれだけを読むと、僧侶の発言としてはいささか"問題アリ"で、「片手間の信仰、いい加減な信仰のススメ」にも取られかねません。そういう話もしたけれど、1時間の中でそれしかその生徒の心に残せなかったのであれば、私も素直に自分の説明不足と、話術の無さを反省するしかないのです。
昨年はオウム真理教の一連の事件があった平成7年から10年目という事もあって、次のようなお話を致しました。
〜平成7年は地下鉄サリン事件のみならず、オウム真理教の信者によっていろいろな事件が続いた大変な年でした。当時、皆さんは小学2年生だからよく覚えていないでしょう。オウム真理教という宗教に、沢山の優秀な若者が入会し、連日テレビで自分たちの信仰の正当性を主張していました。やがて恐ろしい実態が解明され、教義に基づいた犯罪・殺人集団だったことが暴かれるのですが、それでも未だにオウムの教義を信じて疑わない者が大勢いる。カルト宗教に入り、いったんマインドコントロールを受けると、それ以外の何も信じなくなってしまう危険性がある。このように、人を正しく幸せに導くはずの「宗教」は、時として人の分別・理性をも失わせるような恐ろしさを持ち合わせているのだという事を、よく知っておいて下さい。〜
そして大本山増上寺ご法主、成田有恒台下に教えて頂いた次のような例え話を致しました。
〜「宗教」とは食物でいうところの「お塩」の役割であります。「お米」や「パン」のように、主食として食べなければ死んでしまうという性質のものでない。しかしながら、「お塩」のない食生活ほどつまらないものはないでしょう。「お塩」は食卓に無くてはならない、ご飯を美味しく味つけしてくれる大切な存在に違いありません。けれども、それだけを食べて生きていくこともできません。「宗教」もまた、生活を豊かにする、人生に無くてはならない大事な味付け役であります。しかし「宗教」そのものを生活以上に重じることは危険なのです。〜
そうした一連の話の中、つい冒頭の「若い皆さんにとっては宗教はたしなむ(親しみを持つ)位がちょうどいい」という表現を使ったのですが、今思うとやはり不本意でした。話の後半部では、その(親しみの)延長線上にやがて「人間を超えた存在に対する畏敬の念」を抱けるようになってもらいたいし、それが私たちの浄土宗ではご本尊・阿弥陀さまに対するお念仏なのですよ、とお話しをしたつもりで、その流れがどうもうまく伝わらなかったようです。
結局、私が生徒達にお伝えしたかった事は、「宗教」は食物の「お塩」と同じように、私たちの生活を豊かにし、苦しい時を支えてくれる存在であり、決して浄土宗の教義を押しつけるつもりはないけれども、これからの生活に必要な知識・体験を、ぜひ浄土宗という「宗教」を通して学び取ってほしい、という事だったのですが・・。
今年の夏も、同じようなお話しを別の生徒さん達の前でさせて頂きました。はてさて昨年の私の反省、今年は活かすことができたのでしょうか?
円通寺住職 後 藤 真 法
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