以前、高校時代(男子校)の仲間約20名で同窓会を開いた時の事。学生の頃からプレイボーイ気取りで知られるA君も、もう結婚して十数年たち、二人の子の父親です。しかしながら、女癖が悪いのは直っていないようで、「いやぁ困ったよ」と言いながらも、なかば自慢するかの如く、不倫相手がいる事をほのめかしていました。回りの友人たちも、場を取り繕いながらも「こいつは変わらないな」と少し引いているようでした。
「後藤は坊さんだろう?不倫ってどの位悪いのか教えてやれよ」
誰かがこんなふうに自分に振ってきたので、半ば座が白けるのを覚悟で次のような話を致しました。
「仏教で説かれる五戒・・@不殺生(殺すなかれ)・A不偸盗(盗むなかれ)・B不邪婬(よこしまな性欲を満たすなかれ)・C不妄語(嘘をつくなかれ)・D不飲酒(酒を飲み我を忘るるなかれ)に当てはめて考えてみると、不倫によって、少なくともABCは確実に犯すことになるし、当然Dもあり得る。時として@も犯す事になる。ならば"五戒総崩れを引き起こす大罪"とも言える。奥さんや子どものためにも、本気で反省した方がいいよ」
我ながら、よくぞここまで偉そうに・・と思いながらも、実際、私が昔働いていた職場でも不倫の話題が絶えなかったし、お檀家さんとの会話の中でもよく耳にする事なので、日頃から不倫は仏教的にどう捉えておくべきかを考えておりました。
もうずいぶん前ですが『マディソン郡の橋』という小説がヒットし、「不倫も状況次第では一概に悪とは言い切れない」、といったイメージで語られる事が多くなりました。しかし、もともと悪の誘いに弱い私たち人間なのですから、「不倫でも純愛ならば許される」等と考えてしまった時点で、もう自分に歯止めが効かなくなってしまいます。不倫はやはり悪と認識しておくべきでしょう。警察に捕まるような法律上の悪ではなくても、仏教においては厳重に戒められるべき行為だと思います。
以前もお書きしましたが『仏説無量寿経』の後半「五悪段」では、お釈迦さまが「今、この現実世界に住んでいる私たち人間とはどんな存在なのか」を説かれております。その中から「第三の悪」を現代文に意訳してご紹介致しましょう。
第三の悪・・・誘惑に負け身を崩す
ある者は常に心に邪な思いを懐き、淫らなことばかり考え、心は悶々としている。繰り返しわき起こる情欲に心は落ち着かない。きれいな人を見ては流し目を使ってみだらに振る舞い、自分の妻をうとましく思ってはひそかに他の女性のところに出入りする。そのために家財は使い果たし、より深い悪事に手を染めていくのだ。
この罪状が見逃されるはずはなく、死後は計り知れないほどの苦痛を受けて輪廻を繰り返すことになる。その苦痛は筆舌に尽くしがたい。
ここでお釈迦さまがお話しされている事って、ズバリ不倫なんですよね。2500年前のインドの話ですが、時と場所が変わっても人間の本質は何ら変わりがないって事なのでしょう。
確かに我々の住むこの世界は、心の煩悩は消す事ができず、回りは誘惑が手ぐすね引いて待っているような所です。時として、そういう縁に出会ってしまったら、自分だってその誘惑を振り切れるだろうか・・と思うと、とても立派な事は申せません。だからこそ、このお釈迦さまの「第三の悪」のお言葉を真摯に受け取り、悪を作らないための「戒め」が必要なのだ、と思うのです。
円通寺住職 後 藤 真 法
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