「阿弥陀さまは私のカウンセラー」
以前、知人のお寺の掲示板に張られていた住職の一筆。
「生命という意味は、生きろ!という命令なのだ。粗末にするな!」
この住職は別に言語学を専門としている方ではなく、「ただの思いつき」で書いたそうですが、私は実に面白い観点だと敬服致しました。
早速帰ってから「命」という漢字を大漢和辞典で調べてみると、確かに@いひつける。おほせつける。Aいひつけ。おほせ。Bおきて。政令。と続き、現在一番よく使われる「いのち、寿命」という意味は二十番目にやっと登場する程度です。漢字の成り立ちも「口」で「令」ずるから「命」となったとあります。成る程、「生命とは生きろ!という命令」の意とする住職の発想、あながち間違っていなさそうです。この世に生まれた以上、我々は「生きろ!」という命令のもとに存在しているのかもしれません。
この数週間、いじめを苦にしての小・中学生の自殺が後を絶ちません。それは教育や学校の問題だけでなく、その背景として中高年の自殺も近年変わらず増加しているという社会の現状を見落としてはならないでしょう。警察庁の集計で、年間の自殺者総数は3万5千人。交通事故による死者が年間約1万人なのですから、いかにこの数字が大きいかよく解ります。その7割が男性、年齢別では40、50代が全体の4割を占めるそうです。戦後61年、平和な日本において、生きていくことが耐えられない程の苦痛、絶望と必死に戦い、そして死んでいく方がこれほどいる現実。本当はみんな死にたくなどなかったのです。ちゃんと自分の一生を全うしたかったのに、当面の悩み、苦しみによって思うようにならなかったのです。
私は月に一度、「仏教情報センター」というボランティア団体でテレホン相談の窓口に座ります。確かにこの数年、人生問題を相談される方は急増しています。しかし人生問題のような簡単に回答が出せない相談に対しては、ただずっと聞いている事だけしかできません。1時間以上かけて「死にたいほどの悩み、苦しみ」を訴えてくる方も多いのです。そしてそれぞれ皆、別々の悩み、苦しみをかかえています。中にはとても些細な事に対して重く悩まれている方もいらっしゃいますが、皆一様に、必死に自分の心の叫びを訴えてきます。そしてひとしきり話された後、小さな声で「ありがとう」と言って電話を切るのです。私は若干、無力感が残ります。しかし千差万別の人間の苦に対し、それぞれ適した解決策や考えなど、とても私には回答できません。私はただ相手の叫びを聞いて、その人が今苦しんでいるという事実を共感してあげるだけです。しかし、それがカウンセラーとしてのテレホン相談の役目なのだと思っています。
さて、昨今のいじめ自殺問題で私が思い出したのは、私も小学5年の時、番長格の生徒からいじめを受けていて、1ヶ月ほどの間クラスの全員から無視されたという記憶でした。四面楚歌の学校に毎日通うのは苦痛以外の何ものでもなく、しかしながら何故だか両親や先生に相談できなくて、本堂の阿弥陀さまに向かって必死に解決を祈っていたように思います。子どもなりにプライドがあり、親や先生に助けを求めるような状況にだけはしたくなかったのでしょう。
小さい頃から手を合わせて育った本堂の阿弥陀さまだけは、自分の弱さも苦しさも解ってくれる、状況を良くしてくれると信じていました。もし、どこでもどんな時でも自分の心の支えになってくれる存在として、阿弥陀さまがいらっしゃらなかったならば、この私も、これまでいろいろな人生の局面を乗り越えてこられなかったかもしれません。
今でも私はよく、些細な事でくじけたり、自分が嫌になって落ち込んでしまう事があります。そんな時は、やはり本堂でお念仏をお称えしながら、心の中で精一杯、御本尊さまに愚痴を聞いて頂いております。いわば阿弥陀さまにカウンセラーになってもらうのです。やがて30分ほどお念仏すると、だいぶ気持ちは落ち着いてくるものです。
阿弥陀さまはこの私にいつでもどこでも寄り添ってくださる、究極のカウンセラー。私は今後もおそらく立派にはなれないでしょう。表面を装っても、心の中はいつも愚痴、不満だらけであるようなこの私を、阿弥陀さまはこのままで受けとめて下さいます。いつも優しいまなざしで、この私を見ていて下さるのです。
円通寺住職 後 藤 真 法
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