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第2巻「帚木」その21
光源氏、左大臣邸から紀伊守邸へ
紀伊守に仰せごとをいたすと、うけたまわりながらも、「伊予守朝臣の家で忌みごとがございまして、女房たちがこちらに移ってきていて狭いところでございますので、失礼なことがありましては」と、下の者に嘆いているのをお聞きになられて、「その人に近いところがうれしいのだ。女の遠い旅寝は恐ろしい心地がするのを。その女たちの几帳の背後がよい」とおっしゃると、「本当によい御座所でございますな」と使いを走らせる。
たいそう忍んで、ことさら煩わしくないところと、急ぎお出になられると、左大臣にも申しあげず、お供も親しい者に限ってお出かけになられる。
紀伊守のところでは「にわかに」と戸惑っているが、そんなことは光源氏のお供は聞き入れない。寝殿の東廂を空けさせ仮に用意をさせた。遣り水の風情など風流にしてある。田舎屋のような柴垣を施して前栽なども配慮して植えられている。遣り水をとおる風が涼しくて、そこはかとなく鳴く虫の声も聞こえ、蛍もしげく飛びかい風情のある趣である。
供の人たちも渡殿の下から流れ出ている泉ののみえるところに席を取り、酒を飲んでいる。主の紀伊守も肴を求めて歩いているほどに、君はその光景をのどやかに眺められて、雨夜の品定めにて中の品について特にいっていたのは、この程度のことであろうとお思い出しになられる。
その女は、気位高く思っている様子で、桐壺帝のところに入内するとのうわさを聞いていたので、興味をおぼえ耳を止めていらっしゃると、この西側に人の気配がする。衣ずれの音がして、若い女たちの声も憎くない。さすがに女たちが忍んで笑っている様子はわざとらしい。蔀(しとみ)を上げてあったので、紀伊守が「心づかいがない」と叱って下ろしたので、灯の透き影が襖の上から漏れてくるところに、やおら寄りなされて女たちの様子が見えるかとお思いになられたけれど、隙間もないのでしばらく様子を聞いていらしゃると、自分のいるとことのすぐ近くの母屋に集まっているようである。女たちのうちささめいているのをお聞きになると、私のことらしい。「たいそうまじめで、まだ若いのに身分の高い奥さまの決まっていらしゃるのが残念でございますわ。」「されど、しかるべきときには隠れて歩いていらっしゃるようで」など話しているのを聞くにつけても、藤壺宮のことが思われてならず、この秘密がこのような女たちに知られることになったならばと思うと、恐ろしくお思いになられる。
お‐まし【御座】
天皇や貴人の御座所。2重畳に敷物を置く。源氏物語葵「ふし給へる所に―近う参りたれば」(広辞苑)
やり‐みず【遣り水】
寝殿造しんでんづくりの庭園などに水を導き入れて流れるようにしたもの。宇津保物語国譲上「―に滝落し、岩立てたるさま」(広辞苑)
きぬ‐ずれ【衣擦れ・衣摺れ】
着ている人の動作につれて、着物のすそなどのすれあうこと。また、その音。「―の音」
(広辞苑)
しとみ【蔀】
寝殿造の邸宅における屏障具の一。格子組の裏に板を張り、日光をさえぎり、風雨を防ぐ戸。はじめは1枚板。多くは上下2枚に分れ、下1枚を立て、上1枚は金物で釣り上げて採光用とし、これを釣蔀または半蔀はじとみという。また、屋外にあって垣の用をなし、室内にあって衝立ついたての用をなすものを立蔀たてじとみという。訛って「ひとみ」とも。(広辞苑)
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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