もう秋ですね。この一年は本当にあっと言う間に終わりそうで、年月の速さに圧倒されています。京都では9月なると、萩がお寺や神社で見事に咲き、お茶会などが催されますが、私は仕事に追われる毎日でした。今月から始まる京都国立博物館の狩野永徳展と東京国立博物館の大徳川展の図録の英訳でバタバタしていました。殆ど外に出ることなく、萩の季節を楽しまず、気づいたら1ヶ月が終わっていました。
今回は、お釈迦様が誕生した時に初めて口にしたお言葉「唯我独尊(ゆいがどくそん)」を紹介し、このお言葉がどのような意味を持つかと考えてみたいと思います。皆様がご存知のように歴史上のお釈迦様は北インド(現在、ネパール)で生まれました。伝説によると、生まれて七歩歩き、右手を天に指し、左手を地に指し、「天上天下唯我独尊」と言われました。英語では「I
alone am the world honored one」とよく訳されていて、この意味には様々な解釈があります。ある解釈では「この迷いの世に生まれてくるのが最後で、これから解脱する尊い人を指す」、また「衆生全てを救う存在の意味を持っている」とされています。なかには「自己主張で、ナルシスト」と批判されていますが、このお言葉が、自分にとってどのような意味を持つかと考えたいと思います。
私にとって「唯我独尊」は、一行もの(お茶の掛け軸)でよく使われている「主人公」のようです。自分が物事の中心で、自分を大事にすることだと思います。これは「自分以外の人がどうでもいいや」という自己満足では消してありません。自分を大切にすることで、また人をも大切にできるのです。自分に優しくできない人は、どんなに人のためにつくしているつもりでも、本当の優しさが分かっていないと思います。勿論、人のために尽くしたり、努力することはとても大切なことですが、やはり自分の行動は自分から始まります。自分が本当に幸せではなければ、他の人を幸せにできるはずがないのです。
自分が物事の中心とは、日本語ではとても自分勝手のように聞こえるかも知れませんが、やはり世の中は一人一人が自分の行動を考え、その行動に自分で責任をとることが必要だと思います。誰でもが幸福になりたい、でも一人では生きていけない、どうしても人にお世話になったり、人に頼ったりします。そして、たまに人間関係が難しくなったりします、或いはどうして私はもっと好かれないと思ったり、どうして誰々さんとはもっとうまくいかないのかと悩む方が多いのです。
お釈迦様に教えていただいた通り生きることは大変なこと、苦しいことであります。良い日もありますが、悪い日もあります。だれでもよいときは良い顔ができますが、悪い時期をどのように乗り越えるかは、自分の心の中で解決していかなければならないことです。そして、そこで良い種を蒔くか、悪い種を蒔くかは自分自身のことです。仏教では種を蒔くことは因果の喩えとしてよく用います。原因と結果がつながっているという意味ですね。良い種は強い木になって良い実をつける、悪い種は悪い実をつける。自分が物事の中心とはこのような意味です。自分の行動が生活の中にどのような花を咲かせるのは自分から始まるのです。(勿論、自分がコントロールできないものは色々とありますが、どこかで皆繋がっているようですね)。
お念仏を申すことは良い種を蒔くことです。忙しい毎日に追われると、すぐじりじりしたりしますが、お念仏を申すと心が安らぎ、世の中も安らぐ気がします。自分の行いが自分の人生を変えていく、素敵な種を蒔くと素晴らしいお花がきっと咲くと思います。
9月の萩を楽しめなかった私は、まだまだ精進していかねばなりません。
原 真 理
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