(前話は、願成寺ホームページ「メルマガお申し込み」のバックナンバーにあります。)
第4巻「夕顔」その1
六条あたりのお忍び歩きのころ、内裏より退出になられる中宿に、大弐の乳母のたいそう患って尼になった方を見舞うと、五条のその家をお訪ねになられた。
お車の入る門には鍵がかかっていたので、人をして惟光をお召しになって、お待ちになられるほどに、騒がしげである大路のようすを見わたしになられる。この家のかたわらに、檜垣というものを新しくして、上の方は半蔀を四・五間ばかり上げてあって、簾(すだれ)などもたいそう白く涼しげにしてあるところに、美しげな顔の透き影が何人か覗き見をしている。立って動いているような下を思いやると、とくに丈が高い心地がする。どのような者の集まっているのであろうかと、不思議にお思いになる。
お車もたいそうやつしになられて、前駆(さき)もお付けにならないので、誰ともわからないと気をお遣いにならず、少しお覗きになられると、門には蔀(しとみ)のようなものを押しあげてあり、奥行きもなくものはかない住まいを、あわれに「ついの住み家とはこのようなものである」と思えば、御殿も同じであると思う。
切懸(きりかけ)のような物に、たいそう青々とした葛(かづら)が心地よげに絡まっている所に、白い花が自分だけはと笑みの眉をひろげているように咲いている。
「そちらの人にものを申します」と独り言をおっしゃるのを、み随身が膝をついて「あの白く咲いている花は、夕顔と申します。花の名は人のようで、このような垣根に咲いております。」と申す。
本当にたいそう小さな家ばかりで、粗末なあたりのあちらこちら傾いて、立派ではない軒先に絡まっているのを、「口惜しい花の運命であるな、一房折ってまいれ。」とおっしゃると、この押しあげてある門にはいって折る。
さすがにしゃれた引き戸の口に、黄色の生絹のひとえ袴を長く着ている女童のかわいらしいのが出てきて手招きをする。
白い扇のたいそう香をたきこんであるのを、「これに置いてさしあげなさいませ。枝もなさけない花でございますので。」と、わたすと、門を開けて惟光朝臣が出てきて、さしあげる。
「鍵を置き忘れてしまいまして,たいそう困ったことでございます。物の道理も分かる者もおりませんが、混んだ大路にお立ちさせてしまいまして。」
と、かしこまって申す。
なか‐やどり【中宿り】
途中でやどること。途中のやどり。また、その宿。源氏物語夕顔「内裏うちよりまかで給ふ―に」
め‐の‐と【乳母】
@生母にかわってその子に乳を飲ませ、育てる女。うば。ちおも。ちのひと。枕草子25「ちごの―の」
A
(「傅」と書く) 保育の役をする男性。もりやく。ふ。平家物語11「御―持明院の宰相も」
ぜん‐く【前駆】
(古くはゼング・セングとも) 騎馬で先導すること。また、その人。さきのり。さきがけ。先駆。平家物語1「―せんぐ御随身みずいじんどもがもとどりきつて」
すずし【生絹】
生糸きいとの織物で、練っていないもの。軽く薄くて紗しやに似る。源氏物語空蝉「―なるひとへ」。日葡辞書「ススシ」、練絹ねりぎぬ
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
|