(前話は、願成寺ホームページ「メルマガお申し込み」のバックナンバーにあります。)
第4巻「夕顔」その3(乳母を見舞い、隣の女と歌を交わす)
光源氏はたいそう心にしみて、
「幼かりしときに、案じてくれる人たちが亡くなられてしまいまし
た後、育ててくれる人たちがいるようでしたが、親しく心をゆる
すことのできる人は、あなたさま以外にはいないと思いました。
大人になった後は、立場があるので朝夕にとはお会いいたす
こともできず、心のままにお見舞いすることはできないが、やは
り久しく対面いたさぬときは心細く思うのを、「さらぬ別れがな
ければ」と思いまして。」
など、こまやかに語らいになられて、涙をふきなさる袖の香の薫りもたいそうところせきまで満ちているので、「ほんとうにそのとおりと思うと、特別のご運であるな。」と尼君のことをもどかしく見ている子どもたちも、みな涙をながすのであった。
病気全快のための修法(ずほう)など、さらにおこなうように決めおおせになってお帰りになり、惟光に紙燭(しそく)を召して、先ほどの扇をご覧になると、使われた人の移り香がたいそうしみ込んでいて、その持ち主に心が引かれる気持がして、おもむきのある筆遣いで書いてあった。
心あてに それかとぞ見る 白露の
光そへたる 夕顔の花
(心あてに源氏の君かと見うけいたします。白露が光をそえて
いる夕顔の花のごときお顔を。)
そこはかとなく書きまぎらわしてあるのも上品でわけがありそうなので、たいそう思いのほかに興味をもたれる。
惟光に、
「この西側の家はなに人が住んでいるのか、聞いたことがある
のか。」
おしゃると、いつもの女への興味と思われるが、そうは申さず、
「この5〜6日はここにおりますが、病人のことを心配して世話
をいたしておりますので、隣のことは聞かずにおります。」
など、はしたなく申しあげるので、
「憎いとおもっているな。だが、この扇について尋ねてみたい
ことがあるようにみえるので、まだこの事情を知っている者を
召して問え。」
と、おっしゃるので、この宿守である男を呼んで尋ねる。
「揚名介(ようめいのすけ)である人の家でございました。男は
田舎に出かけられて妻は若くて風流で、姉妹などの宮仕人
が出入りしていると申します。くわしいことは下人の知らない
ことでございましょう。」
と申す。
それならば、歌を詠みかけたのは、その宮仕人であるな。したり顔で物馴れていうなど、目にあまることであると思うが、歌を詠みかける心もさして憎くないので、みすてておけず、いつもの女のことにはまめである御心であろう。御畳紙にたいそう筆跡を変えてお書きになられて、
寄りてこそ それかとも見め たそかれに
ほのぼの見つる 花の夕顔
(寄ってこそ私と見極めたらどうですか、夕暮れにわずかに見た
夕顔の花を。)
先ほどの御随身を遣わす。
まだお会いしたことはなかったが、たいそうはっきりとお判りになられる御横顔を見過ごすことなく人の気をひいたのに、返事ももらえず時がたってはしたないところへ、わざわざ返事がきたので、調子にのって「どのように申しあげよう」など言い合っているようであるが、随身はあさましいと思ってもどってきた。
さらぬ‐わかれ【避らぬ別れ】
のがれられないわかれ。死別。伊勢物語「老いぬれば―のありといへばいよいよ見まくほしき君かな」(広辞苑)
しゅ‐ほう【修法】‥ホフ
(スホウ・ズホウとも) 密教で、加持祈祷などの法。壇を設け、本尊を請じ、真言を唱え、手に印を結び、心に本尊を観じて行う。祈願の目的によって修行の形式を異にし、息災・増益・降伏・敬愛などに分類され、本尊も異なる。密法。秘法。(広辞苑)
し‐そく【脂燭・紙燭】
@宮中などで夜間の儀式・行幸などの折に用いた照明具。松根や赤松を長さ約1尺5寸、太さ径約3分の棒状に削り、先の方を炭火であぶって黒く焦がし、その上に油を塗って点火するもの。下を紙屋紙で左巻にした。ししょく。
脂燭
Aこよりを油に浸し灯火に用いるもの。(広辞苑)
あて‐はか【貴はか】
高貴なさま。上品なさま。源氏物語夕顔「―に故づきたれば」(広辞苑)
ゆえ‐づ・く【故付く】ユヱ‥
@自四
わけがありそうである。子細しさいありげである。源氏物語末摘花「古体の―・きたる御装束」
A他下二
わけがありそうにする。趣をつける。源氏物語蛍「手を今少し―・けたらば」(広辞苑)
ようめい‐の‐すけ【揚名介】ヤウ‥
平安時代以後、名目だけで、職務も禄もない国司の次官。源氏物語夕顔「―なる人の家になむ侍りける」(広辞苑)
たとう‐がみ【畳紙・帖紙】タタウ‥
(タタミガミの音便)
@檀紙・鳥の子などの紙を横に二つ、縦に四つに折ったもの。幾枚も重ね、懐中に入れておき、詩歌の詠草や鼻紙に用いる。ふところがみ。かいし。折紙。枕草子36「みちのくにがみの―の細やかなるが」
A厚い和紙に渋や漆を塗り、四つに畳むようにして折目をつけた包み紙。和服、結髪の道具などをしまう。(広辞苑)
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
|