3月から始まった書院庫裡の建設が、この6月20日には上棟式を迎える運びとなった。地鎮祭から落慶までのちょうど真ん中にあたり、特別派手ではないが、にぎやかにおこなった。
まず棟札を納めるのであるが、願成寺流にさせていただいた。一般的に棟札には、施主、設計者、施工業者の名前が記されるのであるが、拙寺では実際に建設に関わってくださった職人のみなさんの名前も書かせていただいた。50人近い人のお名前である。棟札を写真に撮り、式典の後に配らせていただくと、棟札に自分の名前があることをとても喜んでくれた。
失礼ながら、棟梁を別にして、職人ひとりひとりの名前が書かれることはほとんどないであろう。でも、仕事とは言いながらも、お寺での建設という「縁」を持たせていただいたことを大切にしていただこうという気持ちである。
お寺としての上棟式、大工さんとしての建前が無事に終わった。もちろん寺としては仏式の儀式であるが、大工さんは神式である。拙寺は三嶋大社さんとともに、人々の安穏を願っているだけに神式にまったく違和感がない。無事に努めることができた安堵感でいっぱいである。式典が終わると、棟梁に、無事な完成のために神事に使ったお餅を食べるようにいわれた。お餅の上に洗米、お塩、お酒がのっており、じつに塩梅がよい。とてもうまかった。
いよいよ祝宴となった。いつもであれば、お檀家さんとお酒を飲みながら祝うのであるが、今回は職人の皆さんの労をねぎらいたいという気持ちからいっしょに杯を重ねた。
わたしの隣の席は解体屋さんである。つい先日、今までの書院庫裡を解体していただいた方である。書院の柱を「数珠」にするということで、ただ解体するのではなく、柱を1本ずつ抜く必要があった。寺の事情を理解していただき、無事に100本の柱を抜き取ることができ、感謝でいっぱいである。
やはり、お酒が進むと解体の話となり、いま上棟を迎えたばかりの鉄骨づくりの書院の解体話となっていった。上棟式に解体の話が不適切であるという実感がないのである。
上棟式に解体の話などは、俗にいう「縁起でもない」ことである。上棟式には解体屋さんと飲むのはやめようと思ったが、またの上棟式があるわけではないであろう。よい出会いを大切にしたいと思った次第である。
ともに無事な完成を祈ったことはいうまでもないことである。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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