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第5巻「夕顔」その10(夕顔をともなって外出する光源氏)
8月15夜、隈なき月の光が、すき間の多い板屋から残りなくもれ来て、見慣れない住居(すまい)の様子もめずらしく、暁近くになったのであろう、隣の家々では身分の低い男達が目を覚まして
「ああ、たいそう寒いな」
「今年は商売にも頼むところがなく、田舎の行商も思うようにならないので、たいそう心細いな、北側の人、聞いておられるか。」
など、いいあっているのも聞こえる。思うようにならない自分の商売のために起き出して騒ぐのがすぐそばなので、女はたいそう恥ずかしく思っている。風流をわきまえたと自負する人には、恥ずかしくて消えてしまいたい住居である。しかし女はのどかに見苦しいこともつらいことも心苦しいことも、特に気にすることもなく、かえって恥ずかしくて顔を赤らめるより罪なく見えた。
ごぼごぼと雷よりも騒がしく踏みとどろく唐臼の音も、枕元かと思えるのもたいそう耳やかましいとお思いになる。女はとくに何の音かともわからず、たいそう不思議な音であるとだけお思いになる。
つまらぬことのみが多かった。
布を打つ砧(きぬた)の音もかすかにあちらこちらからも聞こえ、空を飛ぶ雁(かり)の鳴き声など忍びがたいことが多かった。縁側の近い御座所であったので、遣り戸(やりど)をあけて、いっしょに外をご覧になる。せまい庭に植えられている呉竹の露も、前栽におりる露も同じきらめきである。虫の声々がなき乱れ、壁のなかのこおろぎの声さへ遠くに聞いていらっしゃる君の耳には、耳のそばでなき乱れるのを、かえって様子が変わっていておもしろいと思われるのは、女へのこころざしの浅くないことで、いろいろな見苦しさも許されるのであった。
女は白い袷に薄色のやわらかい表着を重ねて、決して華やかにならない姿はたいそう可愛らしげであるが、どこといって取り立てたところはないけれど、細やかになよなよとしてものをいう様子はこちらが心苦しく思うほど、ただたいそう可愛らしく見える。少し気取ったところを加えたならばどうであろうかとご覧になりながら、やはりうちとけて会いたいとお思いになるので、
「さあ、この近い所で、気軽にあかそうよ。このような所ばかりでは、たいそう心苦しいな。」
とおっしゃると、
「どうして、そんな急には。」
と、たいそうおおらかにいっている。
君は、この世だけでなく来世までのお約束をなさるに、女がうちとけてくる心ばえなどは、あやしく様子が違っていて世慣れている人とも思われないので、まわりの人がどう思うのであるかもお考えにならず、女の女房である右近をお召しになって、随身をもお召しになって、御車をお入れになられる。この家にいる人々も男の御心ざしのおろかならないのをみてとって、心配しながらも信頼申している。
きぬた【砧・碪】
(キヌイタ(衣板)の約)布地を打ちやわらげ、つやを出すのに用いる木槌(きづち)。また、その木や石の台。その木槌で打つことや、打つ音にもいう。砧打ちは女の秋・冬の夜なべ仕事とされた。[季]秋。源氏物語(夕顔)「白妙の衣うつ―の音もかすかに」。「―を打つ」
(以下すべて広辞苑)
がん【雁・鴈】
カモ目カモ科の鳥のうち、比較的大形の水鳥の総称。ハクチョウより小さく、カモより大きい。体形・生活状態はカモ類に似るが普通雌雄同色。北半球北部で繁殖し、日本では冬鳥。マガン・ヒシクイなどが多い。かり。かりがね。[季]秋
おわし‐どころ【御座所】 オハシ‥
貴人の居所。おましどころ。おわしましどころ。源氏物語(浮舟)「―尋ねられ給ふ日も」
ござ‐しょ【御座所】
天皇または貴人の居室。おましどころ。
やり‐ど【遣戸】
引戸(ひきど)に同じ。枕草子(28)「―を荒くたてあくるもいとあやし」
あわせ【袷】 アハセ
表裏を合わせて作った衣服。裏地つきの着物。近世には、陰暦4月1日から5月4日までと、9月1日から8日まで、着る習慣であった。袷の衣(きぬ)。袷長着(あわせながぎ)。[季]夏。「―に着替える」
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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