最近、共生(きょうせい、coexistence,
symbiosis)がキャッチ・フレーズとされていることが多いようです。もともと、仏教の縁起思想(一つの行為が他の全てのものに繋がっている教え)から来る言葉です。20世紀には、浄土宗の僧侶で、仏教学者の椎尾弁匡先生(しいおべんきょう、1876-1971)が、仏教の運動として、共生運動を立ち上げました。椎尾先生は、『共生教本』、『共生法句集』、『共生仏教』など、共生について様々な本を書きました。仏教思想を通じて人間と自然、人と人の繋がり、そして自分と体の関係について説きました。また、建築家の黒川紀章の『共生の思想』でも、「共生」という言葉が一般に広まりました。
黒川先生がプロローグに題した「なぜ、いま共生の思想なのか」について、私も改めてこの質問について考えてみたいと思います。そして、どのように仏教が今、自然破壊、温暖化、戦争など様々な問題を抱えているこの混乱している世の中に適切なのかということを考えて見たいです。仏教が、どのように今の世の中に通用するかと言う質問は日本の仏教だけではなく、世界的に考えられています。そして、仏教だけではなく、他の宗教も、同じような質問に取りかかっています。
「共生」とは、ただ単に概念だけではなく、生き方の姿勢として大事な思想だと思います。人間と自然、そして人間同士、どのように、本当の共生を得られるか、考えて行く必要があると思います。
あらゆる問題のなかで、特に興味があるのが環境問題です。世界中、「エコ」と言う言葉を最近よく聞きます。テレビや広告に見ることもあります。まるで、新しい概念のように大流行ですが、考えてみれば、昔から「エコ」と言う考えはありました。大量生産のお陰で、世の中は便利になりました。ですが一方では、大量生産が、自然の破壊にも貢献してきたことは、事実です。それは、やはり人間が責任を持たなければなりません。
地球の資源は限られており、最近やっとそれが無制限に使えないと分かってきたようです。しかし、今でも大量生産がおこなわれ、まだまだ意識のレベルが低いと思います(これは、自分も含めてです)。今や省エネと言っていますが、これは70年代に、「エネルギー消費のピークに到達した」という悲鳴を提示した科学者は少なくありません。それにも関わらず、大量生産は続いて来ました。もはや、赤信号を無視し、以前より大量に生産が行われて来ました。今になって、「エコ」と言うのは、遅いかも知れませんが、人間がこの地球に生きている限り、皆で協力しあってどうにかすることが必要だと思います。
先月、友達に誘われ、240頭を飼っている、ストラウス・ファミリー・クリーマリー(Straus Farm)という牧場に行きました。この牧場は、牛にはホルモン剤を与えなく、餌も化学肥料を使わない草などを牛に食べさせています。有機的にミルクやアイスクリームなどの乳製品を作っております。そして、なんと、牛のフンを
化学肥料に使ったり、そのメタンをエネルギーとして使っています。牧場が使う90%のエネルギーは、牛のフンから出るメタンを利用するそうです。これには、本当のエコだと関心と感動をしました。
ものを無駄に使ったり、要らないものを無闇に買ったり、何でもゴミにしてしまったり、ものがゴミになることは、「エコ」ではないと思います。そして、共生的な生き方ではないです。仏教者としての生き方は、まず共生の生き方にして行く必要があるのではないでしょうか?
一息も、草木の息と、共なれば、
このみさながら、雨土広し
椎尾弁匡
原 真 理
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