近年、従来のような葬儀は不必要であるという意見を、しばしば耳にします。今年、ある宗教学の先生が『葬式は、要らない』、という題の新書を出版されて以降は、まるで流行の様に論じられています。
NHKを始め大手新聞、TV、各種雑誌(硬い論説中心の綜合雑誌からファッション誌まで)などが、こぞってこの話題を取り上げており、またインターネットの世界では随分以前から議論されていました。
そこで何回か僧侶の立場から、「葬式不要論」について述べてみます。お断りしておきますが、『葬式は、要らない』を批判する意思は全くありません。題名はドキッとさせますが内容は穏当な書物です。
さて、「葬式不要論」ですが、世間的にあまり厳密な定義がされて通用している言葉ではありません。なんとなく、伝統的な葬儀や墓地、先祖供養などを、総体的に否定するイメージで使われていますが、ここでは個別にわけて考えていきます。
今回は伝統的な通夜、葬儀といったものに否定的な意見について考えます。
「伝統的」といっても、本当に古くからのやり方、地域の人々が集まって自宅で通夜をし、翌日葬列を組んで・・・といった方式のことではありません。
生前に格別な信仰がなかったにもかかわらず、仏式で葬儀をすること、それから故人と特に親しいわけでもない、仕事上のお付き合いの方などもお呼びすること。こういったことが批判の対象になっています。
この様な意見に対しては非常に明確にお答えできます。私達仏教の僧侶としては、仏縁を結んでいただくことが当然望ましいことですが、かといって強制するわけではありません。神道、キリスト教、イスラム教、その他多くの宗教があるのですから、故人およびご遺族の意思でいかなる形式の葬儀をなさっても全く構わないことです。
こう申し上げると、「親族が」「菩提寺が」という方もありますが、親族のことはあくまでその一族の問題で、傍から意見する問題ではありません。自分達で考えなければならないことです。
まして菩提寺が云々は論外です。私も時々相談を受けることがありますが、葬儀は自分達の好きにするが、埋葬だけはお寺にあるお墓にしたい、そういう方がおいでになります。例外的に複雑な事情があることもありますので、そうした場合は個別に相談致します。しかし、そもそもお寺の境内に墓地があるということは、そのお寺の宗旨を信仰していますということにほかなりませんから、信仰がないのならばお寺から離れれば良いのであって、墓地だけを任意に使用するということはありえません。
ちなみに特に都市部では霊園墓地の影響もあって、墓地を財産だと考える方がいます。しかし寺院の墓地は、一定の約束事の上でお寺の土地を使っているのであって、決して個人の財産ではありません。
さて、続いてお呼びする方の範囲ですが、最近はお身内だけでする家族葬が大変に増えてきています。その理由としては、一つにはお身内だけでゆっくりと送りたいというお気持ち、もう一つは葬儀に伴うご遺族の様々な負担を軽くするという実利的な意味合い、二つながら満足させる方法だからです。
はっきりした統計はありませんが、東京、神奈川あたりでは仏式の葬儀の半数位ではないでしょうか。この場合には故人と交友のあった方には、後からお知らせするという形式になります。都市部の人間関係を踏まえたやり方で、これは確かに一つの考え方だと思います。
ただし、お身内以外で、故人と最後のお別れを告げたかった方、本当に親しかったご友人などの思いはどうするのか、という問題があります。この点については、また回を改めて考えたいと思います。
それから、ある程度の社会的立場の方の場合には、良く検討されることがよいと思います。私の存じているお宅では、お身内だけでなさった後で、聞き知った方が次々と弔問にこられてかえって大変な思いをなさったお宅があります。
結局は事前にご家族でよく話し合うことが大切、という非常に平凡な結論になります。ただその折には、メディアに流れている情報を鵜呑みにしないことが大切です。私達が見て驚くようなことが、常識とされていることが多々ありますから。
しばらく前までは、死について語り合うことは不吉なこととされて、生前に葬式の話などしないことは暗黙の了解でした。
しかし、これだけ死や葬儀について価値観が多様化している現在、生前に大切な人々とどのようにお別れするかを考えておくことは、非常に大切なことだと思います。
当たり前ですが、生まれた以上、誰しも必ず死を迎えるのですから。
浄安寺住職 八 幡 正 晃
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