このテーマでの第2回目になります。今回考える対象は、いわゆる「直葬」という葬儀のあり方についてです。
前回、「家族葬」が大変に増えている、ということを論じました。直葬という形態はさらに簡素化した葬儀のしかたで、自宅や斎場などの式場を一切準備しない形態です。最も極端な場合には宗教的儀式は一切なく、棺を火葬場まで運んだらそのまま火葬炉に納めて、荼毘にしてしまいます。
そこまで極端でない例では、火葬場に到着してから、ホールのような場所で最小限のお経を唱える形や、炉に納めてから簡単なお勤めをする形などがあり、一回一回状況に合わせて方法も変わります。お戒名をつけることもありますが、俗名のままということが大半です。
直葬を選択される理由は大きく2つに分けられますが、まずひとつは経済的な事情です。式場を借りる費用が大変だとか、菩提寺が遠方で49日の法要で改めて親族が集まり事実上の葬儀をするから、それ以外は最低限の出費に抑えたい、などという理由です。
こうした場合、それは各家庭の経済上の問題で、実際やむを得ないことでもありますし、私たちとしても限定された状況の中で精一杯にお勤めいたします。
問題なのはもう一つの理由のケースで、それは宗教的な儀式に一切の意義を認めない。本来積極的な宗教否定論であるのに、様々な事情、大概はご親族の不満をなだめるために、最低限お経をあげたという形を整えるためだけの場合です。
こうしたケースでは、喪主自身が焼香したがらないといった、信じられないようなこともあります。
無論どんな状況であれ、頼まれて読経する以上は真剣に致しますが、一方でこの家は何のために読経をしているのか、非常に複雑な感情が生じることも事実です。
こういった方々のお考えを一言で集約すると、
「人間死んだらそれで全ておしまい。」ということです。大変な愚論です。
誰かが亡くなられても、その人とかかわりを持っていた方々は大勢います。その方々の思い、その方々の心というものは全く考えられていません。「自分が」「無意味だと思うから」「自分で」「決めておく」。
そこには自分以外の他者の姿はありません。究極の勘違い、最悪のエゴイズムだと思います。いったいその人は自分自身の力だけで生きていたのでしょうか?
互いに支え合わなければ一日も生きていられないのが、私たち人間という存在です。まるで自分だけに決定権があるかのような認識は、根本的に間違っています。今自分が生きていられるのは、両親はじめ様々な方との縁が積み重なった結果です。
例え自分の命といえども、自分ひとりで何かを決めるということは、過去の蓄積を全て無視する「おこない」です。そういう事実を理解していれば、宗教的信仰の有無を問わず、人生最後の儀式を自分だけで全て決めてしまうことの非礼さが判るはずなのです。まして死後のことはいずれにしても全て他人任せにするしかやりようがないのですから。
浄安寺住職 八 幡 正 晃 |