私と同世代の方のご葬儀を勤めさせていただいた。定年を迎えて第一線を退いたものの、まだこれからの自分の人生のことや、親を始め妻や子供と家族のことをいろいろと考えたことであろう。どんな思いで病気に立ち向かい、死を意識していったのであろうか。
私自身に置き換えお寺のことや家族それぞれのことを考えてみると、いたたまれない気持になってくる。もし私のことであったならば、妻は息子はどうするのであろうかと思うと、すぐに答えが返ってこないだけに辛いものがある。
でも、ひとりの人が命を終えられるという厳しい現実は、有無をいわせず私どもに襲いかかってくる。お年寄りであろうと、若い人であろうと、自分と同世代の人であろうと、亡くなられたという現実に寸分の違いがないのである。少なくとも私たち僧侶にとっては、区別をしてはならないことである。
生まれてすぐに亡くなってしまった赤ちゃんと、大きな会社を創業されて盛大な葬儀をおこなわれた社長さんと、社会的な業績は違うがその命の重さはまったく同じである。少なくとも宗教家といわれる者は、ひとつの命に対して謙虚にならなければならないであろう。
毎日多くの人が生まれ、多くの人が亡くなっていくという時間の流れのなかに、私たちは生きているのである。そして、誰もがこの流れに逆らうことはできない。それならば我が人生は、『方丈記』で鴨長明がいう「よどみに浮かぶに泡沫 ( うたかた ) 」であろうか。いつとなくできて、いつとなく消えていくのであろうか。世の無常を悟るべきなのであろうか。
自然界は無限の事象によって成り立っている。川はまっすぐに流れるのではなく、蛇行するなかに「よどみ」があり、急流があるのである。たとえ泡沫 ( うたかた ) といえども、自然界の大切な構成員であって、自然界には何一つとして不要なものはなく、すべてがあってこそ自然界が成立するのである。
私たちも自然界の大切な一員であるが、命あるという形においては、長短があるという厳しい現実をしばしば突きつけられる。若くして亡くなっていく人を現前にして、何を考えるべきなのであろうか。そう簡単には答えは見つからない。ただ今「自分は生きている」ということを考えるべきである。そして、それは当然その生き方が問われてくることは、言うまでもないことである。
命あるということは、常に、いや時々刻々「自分の生き方」を問うことであろう。無論、自分の人生であるだけに、時には悩むほど考えることもあるが、そう簡単に結論が出てくるものではない。まずはその命を大切にすることであるとは誰にでもわかることであろう。その方法となるとまた困ってしまうのであるが、今日一日を大切にすることから始める。私には法然上人というすばらしき先達がおられることを思うと、元気が出るのである。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久 |