前の2回で家族葬、直葬といった簡略化された葬儀について書かせていただきました。前に述べたことを改めてまとめてみると、こういった形態の葬儀は一概に否定はできませんが、そうした場合には、遺された方々、特に立ち会うことのできなかった方々のお気持ちにどう対処するか、という重たい問題が残っているということです。
簡単に結論の出る問題ではありませんし、それぞれのご家庭の事情によってまったく状況は違ってきます。ただ結局は「自分は自分ひとりの力で生きてきたわけではない」ということを、どのように受け止めるかに尽きると言ってよいでしょう。
いかなる結論になるにせよ、是非こういった側面も真剣に考えていただきたいと思います。本来は当たり前のことですが、葬儀をめぐる最近の議論のなかでは置き去られているように感じます。
さて、次は何かと話題になる「戒名料」についてです。でも、その前にまず「戒名」についてしっかりと説明したいと思います。
戒名料に関しては完全な誤解から始まっていると思っています。何故なら本来は戒名料などという言葉はなかったからです。それなのにまるで当然のことのように、言葉だけがひとり歩きをしてしまっています。そもそも戒名とは何なのか、皆さんご存知ですか?
どんな宗教でもその宗教の信者になります、という儀式を行うと、しきたりに則って信者としての名前をつけてもらいます。たとえばキリスト教ならばクリスチャン・ネームといって、戸籍上の名前とは違う「ヤコブ」とか、「パウロ」とかのお名前をいただきます。
同じように「戒名」とは、仏の教えに帰依した証しとして付けるお名前のことです。「戒名」とよぶのは仏教徒になるときには、必ず仏教の「戒」つまり生活上の決めごとを守るという誓いをたてるからです。ちなみに一般の信者さんの守るべき戒は、おおもとは5つですが、中身は「殺すな」「盗むな」といった非常に基本的なことです。
ですから、戒名は本来ならば生前につくもの、というよりも仏教の信者になった時につくのであって、亡くなった方につける名前ではありません。
ところが今は、戒名とは亡くなってからつけるもの、仏式の葬儀をするからつけるもの、と考えておられる方がほとんどだと思います。これが最初の誤解です。
私たち僧侶は当然ながら戒名を授かっていますが、一般の信者さんでも生前に戒名を授かっている方もおいでになります。そして、その戒名は僧侶もそうでない方も等しく2文字だけです。戒名は2文字だけ、と申し上げると大体びっくりされるのですが、これは大昔からきまっていることなのです。
では、世間でやれ院号がどうしたこうした、といっているのは何なのかということですが、実は戒名を含めた全体のことを本来「法号」とよびます。一つ一つの箇所にそれぞれの意味があり、どの部分がつくのか、ということはお一人お一人で違います。ご先祖以来のお寺との関係、ご本人とお寺との関係、生前の信仰の持ち方、などによって決まってくるのです。この法号全体のことが、一般には「戒名」と思われているのです。これが2番目の誤解です。
仏教に帰依したいという方に、戒を授けて信徒さんとして導いていくことは、僧侶の本来の責務です。ですから、入信した証しとして戒名を授かること自体に、特別の費用がかかる筈はありません。戒名を授かる法要にお布施を包む、ということはありますが、これとて通常の年忌法要でもご祈祷でも同じことですから、特別のことではありません。だから、戒名を受けることそのものに、費用がかかるわけではありません。
ただし、伝統的な日本の文化では師匠より名乗りを許される、名前をつけていただくという場合、お礼をするという習慣があります。
茶道でも華道でもある程度お稽古が進み、師匠から流儀にそったお名前をいただくときには、相応のお礼をすることは現代にも引き継がれています。まして生活の一部ではなく、生きる基本としての宗教ならば、お礼をするのは当然と考える。それが伝統的な日本の礼儀感覚です。
従って、費用は発生しなくても謝礼を準備する、ということは以前からあったのです。けれども、それは寺院の側からの要求ではなく、礼儀としての行動でした。これが現代では理解されなくなってしまい、昔からお寺は戒名料を要求していたと思われています。3番目の誤解です。
いつからこういった誤解が常識と思われるようになったのか、現代ではどのように意味が変わったのか、次回以降続けて考えていきたいと思います。
浄安寺住職 八 幡 正 晃 |