願成寺ホームページは、 こちら(http://ganjoji.com/)です。

次回配信日は、9月1日です。




大本山増上寺

 前回「戒名」に関しては誤解があります、ということを述べました。その誤解とは

 1、戒名とは亡くなったから、つけるものという思いこみ。
 2、色々な意味合いのある法号全体のことが、戒名と思われている
   こと。
 3、そしてその法号の長さに応じて寺院の側が料金を要求すると思
   われていること。

 これをまとめるならば、人が亡くなるとお寺が意味のわからない名前(戒名)を付けて、その長さに応じてお金を要求してくる、となり、世間でいう「戒名料」というもののイメージそのものだと思います。

 前回の繰り返しになりますが、本来は戒名料などという言葉はなかったのです。それがいまや完全に定着してしまいました。戒名料という言葉がいつごろ発生して、いつごろから定着したのか、これははっきりとはわかりません。
 私の子供時分には、大人たちがお寺に対して金銭的な不満をもらすときには、「お布施が高い」「何かと寄付をとる」といっていたように思います。
 昭和50年頃の東京都心の家庭で、この場合の大人たちは大正期の生まれの人間たちです。地方の出身で自身の兄弟や叔父叔母などが、まだ地元に健在であるといった、当時のごく一般的な家庭でしょう。
 ですから、「戒名料」という言葉があったにしても、私の周囲では使われていた記憶がありません。おそらくは、お寺との関わりの薄いご家庭から、そういった地域から、徐々に広がった言葉だと思います。
 そして、あまり良くない印象とともに、全国の津々浦々まで広がったのは、いわゆるバブルの時代だったと思います。これ以降は現在につながる使われ方になった、と覚えています。
 例外はありますが戒名料という言葉は、「お布施」ということの意味がわからなくなるにつれて、広まっていった、というのが実感です。だから今でも、決して戒名料という言葉を使わないお寺は、少なくありません。あくまで「お布施」の一種だからです。

 繰り返しになりますが、本来戒名料というものはありません。戒名及び法号というものは、売っているものではありません。だから、「○○円出すから」何文字になるというものではありません。

 ではどのように決まるのでしょうか。
 それは生前にお寺と、あるいは仏教と、どのように関わってきたかということによって決まります。わずらわしくなるので、ここでは「○○院」という院号や、「○誉」といった誉号(浄土宗独特のもの)の一々の由来は書きません。
 しかし、こういった部分こそ、生前の関わりによって決まってくるのです。

 おおまかに割り切ってしまえば、これらは別に必要の無い部分です。だからこそ、それの付いている方は、それなりのことをなさった方だということがわかるのです。
 例えばもともと院号とは、お寺がその方に対して、感謝の念をあらわすためにお授けしました。
 台風で壊れた本堂の修復をしてくださったとか、50年間お寺の世話役を務めたとか、お寺に多大な貢献をされた方にお授けしたのです。だから、ご葬儀のときに、同じお布施を包まれても法号が違ってくる。それで当然なのです。その方の一生の中での、お寺との関わり全てがそこに影響するのですから。

 それが・・・
 バブルのころに、順序が逆転することが出てきます。お寺に貢献したから、結果として法号が長くなる。こういう手順ではなく、「長い法号(戒名)が欲しいから」お寺に貢献する。といっても、時間のかかることは不可能だから、「金銭面で貢献する」。具体的には、死の直前、あるいは葬儀の時に多額のお布施をするのです。

 確かに金銭的なことであっても貢献には変わりありません。ただし寺院には、長い歴史の中で培われてきた、振り合い、というものがあります。制度内部のバランス、と言っても良いでしょう。
 長い戒名が欲しい、ついては金銭で貢献する。こういった申し入れに当初は寺院側も困って、およそ無理、非常識と思える様な金額を回答する。(私の知っている寺院でどうしても院号が欲しい、いくらなら良いのかとしつこく聞かれて、「1億円」と回答した寺院があります。さすがにあきらめたそうです)つまりは婉曲な拒否だったものが、実際にお布施する方が出てきたのです。

 高額な戒名料すなわち長いお戒名、という感覚の元はここにあります。次回は何故にその感覚が定着してしまったのか、それを考えてみたいと思います。

 浄安寺住職  八 幡 正 晃








 朝日新聞の記事「墓じまい 涙の散骨」には、呉市に住むある80歳になる男性が、墓地から両親と先立った兄の遺骨を出して、海へ散骨して「墓じまい」をしたとある(注)。母とお金を出し合ってやっと作った墓であったが、自らも年老い「自分の次は、誰が墓を守るのか」、東京のひとり息子に呉に帰らないことを確かめ、「私の代でけじめをつけないと、子どもに迷惑をかける」との思いからの散骨であった。そして「いずれ自分もそのときが来たら、散骨をしてもらいたい」と報じている。
 こうした現象から、子孫への継承を前提とした日本の墓は、いま家族のかたちの多様化とともに岐路に立っているという。

 墓地や納骨堂の相談に見える方が、最近よく口にする言葉ある。
「子供には迷惑をかけたくないから」
 いわゆる自分たちが亡くなった後、自分たちの供養や墓地の管理等について子供たちに負担をかけたくないので、どのようにしたらよいのであろうかということである。

 聞くたびに違和感を覚える。子供が、あとあと亡き親の供養や墓参りをすることが、どうして迷惑となるのであろうか。では当事者は、自分の親の供養を迷惑と思っているのであろうか。いわゆる墓地や納骨堂の契約にあって、子供に迷惑が及ばないことが、重要な条件になっているようである。

 一歩譲って考えるに、親が子供に迷惑の掛からないようにすること、そして子供が親に迷惑をかけないようにすることは、何か互いに相手を思いやり美談のように思えるが、果たしてそうであろうか。
 そもそも親子とか家族とかは、お互いに迷惑を掛け合うものではなかろうか。病気になったからといって迷惑を掛け、受験や仕事がうまくいかず心配を掛け、そんな時こそ助け合ってこその親子や家族である。自分たちが死んだ後、たとえ遠くに住もうとも、年に1度の墓参を願うことは、遠慮しなければならないことなのだろうか。

 親子、夫婦、家族、ともに迷惑や心配を掛け合ってこそ親子であり、夫婦であり、家族であると思う。家族であればこそ心配もするし、迷惑を掛けられても、一時的な感情は別として、許せるのである。
 子どもに迷惑を掛けたくないのなら、結婚はしないことであろうし、家族は持たず、一人で生活をすればよいのである。年老いては誰かにお世話をすなわち迷惑を掛けることは必定であるのだから、介護のための十分な預貯金の準備をしておけばよいのである。
 年金制度のない時代は、年老いては子どもと同居して養ってもらったものである。親子のあいだで軋轢(あつれき)を生じながらも、時にはともに喜び、時にはともに悲しみ、一緒に暮らしたものである。昔から道楽息子が追い出されることはあるが、親を追い出す話は存在しない。

 むしろ、親子ともども、互いにもっともっと迷惑を掛け合ったのがよいのかもしれない。わたしは、亡き後、息子に時おりおりの墓参を望む。そして亡き父の菩提を弔うだけでなく、自らの生き方を問うてほしい。しかし、今現在、息子のこれ以上の迷惑や心配は勘弁願いたい。

注 『朝日新聞』2010.8.8朝刊「ルポにっぽん 墓じまい 涙の散骨」

 天主君山現受院願成寺住職
 魚 尾 孝 久


願成寺墓地全景









第291回 辻説法の会

 お茶を飲みながら、法話をお聴きになりませんか!

日   時
8月20日(金) PM7:00〜8:30
会   場
茶房「 欅(けやき) 」 2F TEL:055-971-5591
講   師
常林寺住職 山田 太壱 師
参 加 費
無料 (飲み物は各自でお支払いください)
主   催
県東部青少年教化協議会(この会は、特定の宗派にこだわらず、
ひとりでも多くの方々に仏教を伝えることを目的に活動する団体です。)
次   回
9月17日(金) 同時刻  本法寺住職 清水 俊匡 師




お 願 い

 今まで、お塔婆や香花等は、寺にて焼却しておりましたが、法改定により、平成14年12月1日から「野焼き」や「簡易焼却炉」によります、すべてのごみ等の焼却ができなくなりました。現在、願成寺にあります3基の焼却炉もすべて使用禁止となり、撤去いたしました。
  したがいまして、今後、墓参の折いらなくなりましたお花などのゴミにつきましては、下記のごとく、ご処理をいたしたく存じますので、ご理解とご協力をお願い申し上げます。



ゴミの分別

 ゴミは、次の4種類に分別してお出し下さい。

「燃えないゴミ(ビン・カン)」
市のゴミに出します
「土に返すゴミ(花・香花)」
寺にてチップにして土に返します
「土に返すゴミ(草・落ち葉)」
寺にて土に返します
「燃えるゴミ(紙・ビニール)」
市のゴミに出します

いらなくなりましたお塔婆は、寺にてチップにして土に返しますので、ゴミ箱の脇にお置き下さい。
ゴミ箱は水屋(水道)の近くに用意いたします。
飲物や食べ物は、動物が散らかしますので、お参りの後はお持ち帰り下さい。
お手数をおかけいたすことばかりでございますが、ダイオキシンをなくし、きれいな地球環境のため、切にご理解とご協力をお願い申し上げます。








▼ 文学講座のお誘い
 願成寺公開文学講座といたしまして、『源氏物語』を読んでおります。写本(青表紙本、新典社刊)と活字本とを対校しての講読ですが、参加者全員で声を出しての読みますので初心者の方でもご自由に参加いただけます。
現在、「須磨」の巻に入ったところで、朧月夜との事件から都に居られなくなった光源氏が、須磨へと旅立つところです。
ご一緒に、光源氏とともに須磨への旅を始めましょう。

開催日
 毎月 第1,3土曜日(変更あり)
開催時間
 10時〜11時30分
場所
 願成寺庫裡
費用
 無料(教科書はお求めいただきます。 1000円〜2000円)
申し込み
 電話、FAX、E-mail

※ご参加をご希望の方は、檀家、非檀家を問わず、どなたでもご参加いただけます。







 ラジオが唯一の情報源であった時代から、新聞やテレビが加わり、小学生までがパソコンや携帯電話を利用している時代となった。ひと昔前の学生の楽しみというと麻雀とお酒が定番であったが、町から雀荘が消え泥酔した学生の姿は少なくなった。これも学生たちの娯楽に選択肢が増えたからであろう。世の中はあらゆる選択肢が増え、情報のアイテムが氾濫し、多様性の時代といえよう。

 教化活動の基本としては、葬儀や年忌法要を始め、修正会、彼岸法要、施餓鬼会、十夜法要と、あらゆる法要での説法であろう。印刷技術の発達によって掲示板伝道、文書伝道ハガキ伝道がおこなわれるようになった。拙寺でも「ハガキ伝道」や「テレホン説法」の経験があり、教化活動も多様化してきたなかで、時代のニーズにあった教化活動の一つとして、「 願成寺メールマガジン 」と名付けてメールマガジンを発行することにした。

 寺院という特質から、教化の対象となるのはお年寄りという現実は否定できない。また檀信徒全体からすれば、どれほどの人が、インターネットを利用しているかと考えるとその効用ははなはだ微少と思われるが、新しい形での教化活動として実験的に発信することにした。

 インターネットによるメールマガジンの配信は、お寺に足を運ぶことの少ないあらゆる世代の皆さまに語りかけることができるであろう。また拙寺のお檀家さま以外の皆さまとも、お寺とのつながりを持たせていただく方法としては最良と考えております。

 毎月二回とは申せ、浅才なわたくしにとってはかなりの重圧となっていくであろうことは想像にかたくない。三回で中止するわけにもいかず、発信を決意するのに一年もかかった始末である。

 諸大徳の応援をお願いいたしながら、皆さまとの交流の場としていきたいと存じます。よろしくお願い申しあげます。

 天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久


 







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