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次回配信日は、10月1日です。




落慶した本堂


落慶法要直前の堂内

 さて今回は、「高額な戒名料すなわち長いお戒名(法号)」という感覚が定着した、その理由を考えてみます。
 理由としては、大きく分けて3つ挙げられると思います。

 1、現実にそういう形が通例になっていた。
 2、一部の寺院が金銭至上主義に傾いている。
 3、過疎地域の寺院が運営難から妥協を強いられている。

 このうちの 「1、現実がそうだった。」ということは御葬家の側に半分の責めがあります。前回も記したように、生前にお寺や仏教とかかわりが無かったのにもかかわらず、長いお戒名を欲しがる、いわば虚栄心も原因だったのです。
 最近は「戒名料」に関する諸々の問題は、全て寺院と葬儀社の責任、といった論調が主流です。ですが、決してそうではない、ということははっきり認識してもらいたいと思います。

 御葬家の側に半分の責めがある、ということは残りの半分はそれ以外、すなわち寺院及び葬儀社等、関連の業者さんにあるということです。業者さんに関しては改めて論じることとして、寺院の側の事情を見てみます。
 この事情が、原因の2及び3の部分です。「2」として取り上げた、一部にお金のことが最優先のお寺がある、ということは大変残念な事実です。この点はまた改めて考えることとして、今回は「3」の理由について述べてみます。

 無論、お寺を日常的に維持管理するためには、一定のお金が必要です。一般的に寺院の場合は境内地も建物も、普通の家庭よりはるかに大きいために、その経費も大きな額になります。 例えば、東京都心のとあるお寺の場合、植木屋さんの支払いだけで、年間1千万近いと言います。

 そこまでのスケールでなくても、寺院を運営していくためには、なにがしかの費用は必要です。そしてその費用は、大多数のお寺では皆様方のお布施に頼っているのです。
 当たり前のことに聞こえますが、浄安寺のある相模原辺りでは、これは一般的な常識ではありません。お布施は僧侶個人の収入になると誤解している方が半数以上だと思います。
 なぜこんな状況が生まれたかといえば、それは日常的にお寺と接点がない、ということに尽きると思います。

 霊園にお墓を買って、法事のときの読経はどこかで紹介してもらった僧侶に、霊園であげてもらう。これではどこにもお寺との接点がありません。だから、お寺の運営、といったところにまでは思いが至らないのです。
 けれども、決して悪意があるわけではありませんから、説明すればおおむね納得していただけます。ただ、説明させてもらえる接点すらないのが現状です。

 ところで、ご承知のように、日本の人口はほぼ横ばいの状態が続いています。その中で都市部にそれだけの新しい墓地の需要があるということは、どこかが減っているということです。その減っている地域が、過疎地域なのです。

 過疎地域にある寺院では、もうずいぶん以前から維持管理が限界に来ています。お寺の檀家さんでも普段は都市部で生活をしており、葬儀と埋葬の時だけお寺に来る方々が増える一方です。
 当然、普段の接点がありませんから、田舎にある菩提寺へのお布施や付け届けといった、伝統的なお付き合いがわからない。といってお寺としては、お堂の修理や、場合によっては新築なども怠るわけにはいかず、そこで苦肉の策として「戒名料」という方式を採用するところがでてきたのです。

 昔の農村では、お寺にかかる費用というのは、村落のしきたりに則って分担が決まっていました。ここでは、そのこと自体の是非は論じません。ただ、事実としてそうだった、ということです。

 ところが、共同体としての村落を離れてしまった場合、お寺のことに限らず、そこでのしきたりは無意味となります。変わって新しく参加した地域社会、すなわち都市のルールが基準になります。
 都市のルールでは、対価が適正かどうかが非常に重要な要素です。だからそもそも、対価という概念の正反対に位置する「布施」ということの意味がわからなくなってしまいました。

 そこで、一部のお寺では、ある意味ではお戒名を物品として扱う戒名料、という形式をとることによって、必要な収入を確保しようと動いたのです。それが結果的に戒名料という概念が定着する、その一因となりました。

 たとえ、「布施」の考え方からずれるとしても、こういう状況下ではやむをえない選択であると思います。こういったお寺の場合、あくまでお寺の維持管理の費用を確保することが目的です。それでも足りずに住職が外で働いて、そのお給料も生活費以外全てお寺に入れている、そんな話はいくらもあります。

 けれどもここまで来てしまえば、お寺のできる努力としては限界にきています。突き詰めれば、根本的には檀信徒の方々が自分たちの菩提寺をどうしたいのか、という問題にまで掘り下げなければならない、既にそういう状況になっています。

 戒名料の額ばかりを問題にするのではなく、その背景にも目を向けていただきたい。強くそう思っています。

 浄安寺住職  八 幡 正 晃








 来年、法然上人800年遠忌を迎えるにあたって、法然上人のご尊像を静岡に招来してのお念仏の大会がおこなわれた。静岡県でも有数の施設である静岡県コンベンションアーツセンター「グランシップ」を会場として、檀信徒1000人が集結した。
 各自が木魚を持参して、木魚を叩いてともにお念仏を申そうという企画である。会場施設の外にまで聞こえる木魚の音、それはもう、壮絶といった表現が適当かも知れない。総合施設であるだけに、他の利用者にとって、外からは内容が分からないだけに「何かオカルト集団が集会を開いているのでは」と、多少異様であったかも知れない。これが知恩院から聞こえてくる1000人の木魚の音ならば、信仰の深遠さと心の癒しとなったであろうに、シチュエーションの違いとは恐ろしいものである。

 ところで案内に「木魚持参で、持っていない方は菩提寺に相談を」とある。静岡県浄土宗寺院が160余ヶ寺であるので、1000人の結集では、1ヶ寺数人の参加ということになる。拙寺も8人の檀信徒とともに参加したが、お寺の教化が充分でないのか残念ながら一人も木魚を持っておらず、お寺の木魚を持参することとなった。
 拙寺のことであるが、檀信徒の木魚所有率は数%にもおよばないであろう。仏壇に鐘(かね)は必ずあるが、木魚となると100軒にひとつかふたつである。じつはお盆のお棚経にお檀家さんを訪れる結果なので、これは確かな数字である。
 自宅で木魚を叩いてのお念仏は、残念ながらほとんどおこなわれていないのが現状である。だからといって、我が檀家さんみなが無信心であるというわけではない。仏壇に向かって手を合わせる心は、微塵も疑いのないものであると確信をしている。

 ところでこうしたイベントの折、知恩院さんよりたくさんの記念グッズを頂戴するのも楽しみである。記念文字の入ったボールペンがいちばん気に入っている。一流メーカー品で書き味もよく、インクが終わるまで長いこと手元にあるのがよい。
 散華は、とてもきれいで、わたしは本の栞(しおり)として使っている。本山などは、独自に制作された散華で、蒐集するもの面白い。拙寺では市販品でごめんなさい。
 あとテッシュペーパーが入っているが、いささか気になることがある。そのデザインは、葵の御紋と「華頂山」とある。徳川家が浄土宗に帰依したところから、浄土宗は葵の御紋の使用が許されていることからしばしば文様として使われる。袈裟や衣の文様に使われ、拙寺でも書院の唐紙の文様は、宗門の「月影杏葉」と「葵」が使われている。「華頂山」は、知恩院の山号である。
 テッシュペーパーは、その用途柄すぐにごみ箱に捨てられるものである。紙そのものには何ら問題がないが、紙が終わった葵の御紋と「華頂山」と書かれたケース(ビニール袋)をトイレのごみ箱で見つけたときは、いささか気になった。神さまや仏さまに関わるものは、不用意に持ち帰らないという人がいる。入らなくなったときに、ポイとごみ箱に捨てられないからだという。
 じつは私も観音堂ができたとき、その写真入りのテッシュペーパーを作成してさしあげたものである。ごく自然なことであるが、その袋をお手洗いのごみ箱で見つけたときは、いささか寂しさを感じ、再びテッシュペーパーを作ることはなかった。

 最近では分別収集がすすみ、ボールペンの入っていた箱と散華の入っていた紙袋は、紙資源箱のなかに入れられた。
 

さん‐げ【散華】〔仏〕
@仏に供養するために花を散布すること。
A4箇(密教では2箇)の法要の一。法会中、紙製の五色の蓮華の花弁などを花筥けこに 盛り、声明しようみように合せながらまき散らすこと。
B声明の一種。法会で、散華を行う際に歌唱するもの。
C経典の中の散文の部分。貫華。
D誤って、華はなと散ると解し、戦死を指していう。(広辞苑より)

さん‐ごう【山号】
寺院の名に冠する称号。もと寺院は多く山にあり、その山の名をもって呼ばれた。日本には禅宗と共に中国より山号の制が伝えられ、のち平地の寺院にも波及した。霊亀山(天竜寺)・比叡山(延暦寺)・金竜山(浅草寺)の類。(広辞苑より)

 天主君山現受院願成寺住職
 魚 尾 孝 久


法要の記念品









第292回 辻説法の会

 お茶を飲みながら、法話をお聴きになりませんか!

日   時
9月17日(金) PM7:00〜8:30
会   場
茶房「 欅(けやき) 」 2F TEL:055-971-5591
講   師
本法寺住職 清水 俊匡 師
参 加 費
無料 (飲み物は各自でお支払いください)
主   催
県東部青少年教化協議会(この会は、特定の宗派にこだわらず、
ひとりでも多くの方々に仏教を伝えることを目的に活動する団体です。)
次   回
10月15日(金) 同時刻  教福寺住職 上田 文雄 師




お 願 い

 今まで、お塔婆や香花等は、寺にて焼却しておりましたが、法改定により、平成14年12月1日から「野焼き」や「簡易焼却炉」によります、すべてのごみ等の焼却ができなくなりました。現在、願成寺にあります3基の焼却炉もすべて使用禁止となり、撤去いたしました。
  したがいまして、今後、墓参の折いらなくなりましたお花などのゴミにつきましては、下記のごとく、ご処理をいたしたく存じますので、ご理解とご協力をお願い申し上げます。



ゴミの分別

 ゴミは、次の4種類に分別してお出し下さい。

「燃えないゴミ(ビン・カン)」
市のゴミに出します
「土に返すゴミ(花・香花)」
寺にてチップにして土に返します
「土に返すゴミ(草・落ち葉)」
寺にて土に返します
「燃えるゴミ(紙・ビニール)」
市のゴミに出します

いらなくなりましたお塔婆は、寺にてチップにして土に返しますので、ゴミ箱の脇にお置き下さい。
ゴミ箱は水屋(水道)の近くに用意いたします。
飲物や食べ物は、動物が散らかしますので、お参りの後はお持ち帰り下さい。
お手数をおかけいたすことばかりでございますが、ダイオキシンをなくし、きれいな地球環境のため、切にご理解とご協力をお願い申し上げます。








▼ 文学講座のお誘い
 願成寺公開文学講座といたしまして、『源氏物語』を読んでおります。写本(青表紙本、新典社刊)と活字本とを対校しての講読ですが、参加者全員で声を出しての読みますので初心者の方でもご自由に参加いただけます。
現在、「須磨」の巻に入ったところで、朧月夜との事件から都に居られなくなった光源氏が、須磨へと旅立つところです。
ご一緒に、光源氏とともに須磨への旅を始めましょう。

開催日
 毎月 第1,3土曜日(変更あり)
開催時間
 10時〜11時30分
場所
 願成寺庫裡
費用
 無料(教科書はお求めいただきます。 1000円〜2000円)
申し込み
 電話、FAX、E-mail

※ご参加をご希望の方は、檀家、非檀家を問わず、どなたでもご参加いただけます。







 ラジオが唯一の情報源であった時代から、新聞やテレビが加わり、小学生までがパソコンや携帯電話を利用している時代となった。ひと昔前の学生の楽しみというと麻雀とお酒が定番であったが、町から雀荘が消え泥酔した学生の姿は少なくなった。これも学生たちの娯楽に選択肢が増えたからであろう。世の中はあらゆる選択肢が増え、情報のアイテムが氾濫し、多様性の時代といえよう。

 教化活動の基本としては、葬儀や年忌法要を始め、修正会、彼岸法要、施餓鬼会、十夜法要と、あらゆる法要での説法であろう。印刷技術の発達によって掲示板伝道、文書伝道ハガキ伝道がおこなわれるようになった。拙寺でも「ハガキ伝道」や「テレホン説法」の経験があり、教化活動も多様化してきたなかで、時代のニーズにあった教化活動の一つとして、「 願成寺メールマガジン 」と名付けてメールマガジンを発行することにした。

 寺院という特質から、教化の対象となるのはお年寄りという現実は否定できない。また檀信徒全体からすれば、どれほどの人が、インターネットを利用しているかと考えるとその効用ははなはだ微少と思われるが、新しい形での教化活動として実験的に発信することにした。

 インターネットによるメールマガジンの配信は、お寺に足を運ぶことの少ないあらゆる世代の皆さまに語りかけることができるであろう。また拙寺のお檀家さま以外の皆さまとも、お寺とのつながりを持たせていただく方法としては最良と考えております。

 毎月二回とは申せ、浅才なわたくしにとってはかなりの重圧となっていくであろうことは想像にかたくない。三回で中止するわけにもいかず、発信を決意するのに一年もかかった始末である。

 諸大徳の応援をお願いいたしながら、皆さまとの交流の場としていきたいと存じます。よろしくお願い申しあげます。

 天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久


 







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