佛教ばかりでなく、おおよそあらゆる宗教がいわゆる「欲」というものを否定しているであろう。ちなみに広辞苑で欲のつく言葉を探してみる。
「欲と相談」「欲と二人づれ」「欲に転ぶ」「欲に目が眩む」
「欲の皮が突っ張る」「欲の皮が張る」「欲の熊鷹股を裂く」
「欲太り」「欲望という名の電車」「欲も得もない」「欲求不満」
「欲の熊鷹股を裂く」など、右足で一頭の猪をつかみ、左足でももう一頭の猪をつかんだ熊鷹であるが、猪が左右に逃げてもその足を放すことがなかったため、股が裂けたという話で、「欲」こそ慎まなければならないことを物語っている。
しかし、「欲」はそれほど悪者であろうか。「一番になりたい」という欲はとても大切である。アスリートは常に一番を目指して血の出るような努力をしている。北島康介、宮里藍、石川遼を誰が非難するであろうか、むしろ応援するに違いない。
家族のために一生懸命働き少しでも多く稼ぎたいという気持、ベンチャー事業に挑戦して社長になりたい、頑張って一流大学に入りたい、すてきなあの人と結婚してすてきな家庭を持ちたい、どれもある意味では「欲」と隣り合わせであるが、だれが否定するであろうか。むしろ「頑張れ」とエールを送ってくれるかも知れない。「欲」こそあらゆることの原動力ともいえよう。
ところで人間にとって「三大欲」というものがある。「睡眠欲」「食欲」「性欲」であり、人間が生き物として存在し続けていくためには不可欠なものである。どの欲一つがかけても人間の存在を危うくするもので、「欲」こそあらゆる生物が生きながらえていくように必要不可欠なものである。そのように遺伝子に刷り込められているといってもよいのであろう。
ところが人間は知能があるためか、この「欲」すら時には楽しみや快楽としていくのである。私などは「春眠暁を覚えず」とばかりに、春ばかりでなく惰眠を貪る。アヒルに高カロリーの飼料を与えて脂肪肝を作らせ、フォアグラを楽しむなどは食欲を弄(もてあそ)んでいるともいえよう。「性欲」すら繁殖以外にも利用するのである。他の生き物にはないことである。
百獣の王ライオンは、必要以上の狩をすることはなく、その時に生命を維持するのに必要な狩をするだけであり、ましてやあれやこれと美食に走ることはない。また、おおかたの生き物は年に一度決まったときに繁殖をする。あとはエネルギーを温存するためにひたすら眠るだけであるのに。
やはり「欲」は「諸刃の剣」であろうか。こうした「欲」について、仏教では「少欲知足」と説く。「欲少なくして、足るを知る」ことで、少しの欲で満足することを求めている。多欲であるからこそ苦が生ずるのである。
物質社会では、「少欲」こそ大切なのである。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
|