前回「高額な戒名料すなわち長いお戒名(法号)」という感覚が定着した、その理由を考えていくなかで、寺院運営上の要求があるということを述べました。ただ、運営の必要と無関係に「金銭至上主義」の寺院があるということ、これは既に2000年頃に全日本仏教会にもレポートが出されています。
大変残念なことであり、ただひたすらお詫びするしかありません。私ども仏教界の側が自浄努力をしなければならないことですが、率直に申し上げてなかなか進まないということもまた事実であり、より真剣に考えねばならない大きな課題です。
しかし、前回も申し上げたように、大多数の寺院では一生懸命に努力をしています。それでも限界がきているのです。ですから、戒名料というものだけを取り上げて論じるのではなく、総体としての寺院の経済という観点からの検討が必要です。
ここで根源的な問題を皆さんと一緒に考えなければなりません。それは「先祖代々の菩提寺が消滅しても良いのか」ということです。
この問題は、地域間で非常に答えのわかれることと思います。私の出身地でもあり、現在浄安寺がある東京都市圏あたりですと、半数近くが「仕方ない」「構わない」という答えになると思います。一方で、例えば北陸のように信仰の篤い土地柄では、ほぼ全員が反対だと思われます。
先祖代々の菩提寺が消滅しても構わない、ということも一つの考えとしてはありえます。しかし、その結果がどうなるかということを真剣に考えているのでしょうか。菩提寺が無くなれば、当然その寺院が管理していた墓地は荒廃します。人の手が入らなくなるということは、劇的な変化を呼び寄せるもので、早いところでは1、2年で墓地であったことさえわからなくなるでしょう。
自分の父祖代々の墓がそうしてわからなくなってしまっても構わない。そこまでの覚悟があって、菩提寺が無くなっても良いというのならば、それは仕方がありません。けれども実感としては、そこまで考えている方はそう多くはないと思います。むしろ、お寺がつぶれるということが想像できない、という方が多いのではないでしょうか。
現実には年々無住寺院も増加していますし、相も変わらず特集を組むメディアの中には、10年後には寺院数が半分以下になる、などという主張も見受けられます。確かに従来のやり方では限界があることは事実なのです。その結果がこの現状なのですから。
でも、だから無くなっても仕方ない、ではなく、どうやったら維持できるのかを考えたいのです。「ご先祖様」などというと古臭く感じるかもしれませんが、その方々がいたからこそ、自分が命を与えられたのだということは、厳然たる事実ですから。自分が生きていられることが有り難いと思うなら、両親、祖父母、それ以前の方々に感謝するのは仏教以前に人間として当然のことです。だから先祖代々の葬られた場所を守っていくのも人間の当然の営為なのです。
あまりにも技術革新が進んだために、お互いに支えあって生きているという基本的な感覚が稀薄になってしまいました。でも人は一人では生きていけないということを、決して忘れてはならないのです。
浄安寺住職 八 幡 正 晃
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