願成寺ホームページは、 こちら(http://ganjoji.com/)です。

次回配信日は、11月1日です。




彼岸法要で先祖供養

 前回「高額な戒名料すなわち長いお戒名(法号)」という感覚が定着した、その理由を考えていくなかで、寺院運営上の要求があるということを述べました。ただ、運営の必要と無関係に「金銭至上主義」の寺院があるということ、これは既に2000年頃に全日本仏教会にもレポートが出されています。
 大変残念なことであり、ただひたすらお詫びするしかありません。私ども仏教界の側が自浄努力をしなければならないことですが、率直に申し上げてなかなか進まないということもまた事実であり、より真剣に考えねばならない大きな課題です。

 しかし、前回も申し上げたように、大多数の寺院では一生懸命に努力をしています。それでも限界がきているのです。ですから、戒名料というものだけを取り上げて論じるのではなく、総体としての寺院の経済という観点からの検討が必要です。

 ここで根源的な問題を皆さんと一緒に考えなければなりません。それは「先祖代々の菩提寺が消滅しても良いのか」ということです。

 この問題は、地域間で非常に答えのわかれることと思います。私の出身地でもあり、現在浄安寺がある東京都市圏あたりですと、半数近くが「仕方ない」「構わない」という答えになると思います。一方で、例えば北陸のように信仰の篤い土地柄では、ほぼ全員が反対だと思われます。

 先祖代々の菩提寺が消滅しても構わない、ということも一つの考えとしてはありえます。しかし、その結果がどうなるかということを真剣に考えているのでしょうか。菩提寺が無くなれば、当然その寺院が管理していた墓地は荒廃します。人の手が入らなくなるということは、劇的な変化を呼び寄せるもので、早いところでは1、2年で墓地であったことさえわからなくなるでしょう。

 自分の父祖代々の墓がそうしてわからなくなってしまっても構わない。そこまでの覚悟があって、菩提寺が無くなっても良いというのならば、それは仕方がありません。けれども実感としては、そこまで考えている方はそう多くはないと思います。むしろ、お寺がつぶれるということが想像できない、という方が多いのではないでしょうか。

 現実には年々無住寺院も増加していますし、相も変わらず特集を組むメディアの中には、10年後には寺院数が半分以下になる、などという主張も見受けられます。確かに従来のやり方では限界があることは事実なのです。その結果がこの現状なのですから。

 でも、だから無くなっても仕方ない、ではなく、どうやったら維持できるのかを考えたいのです。「ご先祖様」などというと古臭く感じるかもしれませんが、その方々がいたからこそ、自分が命を与えられたのだということは、厳然たる事実ですから。自分が生きていられることが有り難いと思うなら、両親、祖父母、それ以前の方々に感謝するのは仏教以前に人間として当然のことです。だから先祖代々の葬られた場所を守っていくのも人間の当然の営為なのです。

 あまりにも技術革新が進んだために、お互いに支えあって生きているという基本的な感覚が稀薄になってしまいました。でも人は一人では生きていけないということを、決して忘れてはならないのです。

 浄安寺住職  八 幡 正 晃








 つれづれ草」下第百四十二段に「孝養(けうやう)の心なき者も、子持ちてこそ親の志(こころざし)は思ひ知るなれ。」とある。子を持って初めて親孝行を知るという。そのとおりであろう。そして「風樹の嘆」のごとく、孝行しようと思った時には親はいないというのである。

 ところで私の名前であるが、「魚尾孝久」と聞いて僧侶と思う人はいない。「魚頭」というと高級な料亭にも思えるが、「魚尾」では景気の悪い屋号にしか思えないであろう。だが、本人はいたくこの姓が気にいっている。漢字は易しいのに、どう読んでよいかわからないところがよい。インパクトのある名前で一度で覚えてもらうことができるからである。
 自分の名前を電話など口頭で伝えるとき、「魚」という字に、尾っぽの「尾」、次が問題な「孝」の字である。やはりわかりやすいのは、親孝行の「孝」の字というのがよい。ところがほとんど親孝行などしたことのない私にとっては、使いたくないフレーズである。若きころ親不孝の「孝」の字といったこともあるが、評判は良くなかった。

 中学に入学した時であったか、国語の教師でもあった父が、一冊の文庫本を手渡し講義するという。鴨長明の「方丈記」であった。その校訂者は独学で勉強した著名な国語国文学者である山田孝雄であり、お前の「孝」の字はそこから頂いたとの話を聞いた。したがって親孝行を強いられたわけではないことは、子供のころから承知していたことである。私も山田孝雄そして父と同じ国文学を専攻したが、遠く足元にも及ばないことが恥ずかしい。いわゆる名前負けである。
 その親子での勉強会は3回で終わってしまった。成人してからその理由を問うたら、「3回やれば、その道筋はできた。あとは自分でやればよい」との説明であった。我が家では「三日坊主」は、あながち非難されるものではないこととなった。そういえば一緒にこのメルマガを書かせている副住職に文章指導をしたのも3回であった。

 さて、仏教の世界では「孝行」「孝養」をどのように説くのであろうか。お釈迦さまは、妻子を残してお城を出て出家したのであるから、仏教の教えでは親孝行は馴染まないように思える。ご承知のように、仏教は長い年月と広大な地域を伝来してくるあいだに変遷をとげる。孝養もまた善行とするのである。
 室町期にあってお念仏の弘通に努めた隆尭(驪ト)の著作『十王讃嘆修善抄』に次の一文がある。
   「但し孝養に於て三重の劣あり。衣食を施すを下品とし、父母
   の心に違ざるを中品とし、功コを廻向するを上品とすといへり。
   存生の父母にすら猶功コを廻向するを以て上品の孝養とす。
   況んや亡親に於をや。」
 存生の父母においても功コを廻向する必要があると説く。あらゆる徳をつちかい、その徳を親に振り向けさし上げてこそ真の孝養というのである。

 いざ「徳をつむ」といっても、何をしてよいのか分からないであろう。まず「南無阿弥陀仏」のお念仏を申すことであることはいうまでもない。親に何かプレゼントすることもよいことである。

【風樹の嘆】親孝行しようと思った時には親は亡く、親孝行出来ない事の嘆きです。親孝行、《「韓詩外伝」九から》静止していたいのに、風に吹かれて揺れ動かざるをえない樹木のように、子供が孝行をしたいと思うときには、すでに親が死んでいてどうすることもできないという嘆き。風樹の悲しみ。風木の嘆。風木の悲しみ。

 天主君山現受院願成寺住職
 魚 尾 孝 久


即成院(25菩薩像をぜひ拝して下さい)










第293回 辻説法の会

 お茶を飲みながら、法話をお聴きになりませんか!

日   時
10月15日(金) PM7:00〜8:30
会   場
茶房「 欅(けやき) 」 2F TEL:055-971-5591
講   師
教福寺住職 上田 文雄 師
参 加 費
無料 (飲み物は各自でお支払いください)
主   催
県東部青少年教化協議会(この会は、特定の宗派にこだわらず、
ひとりでも多くの方々に仏教を伝えることを目的に活動する団体です。)
次   回
11月19日(金) 同時刻  西福寺住職 矢弓 尚善 師




お 願 い

 今まで、お塔婆や香花等は、寺にて焼却しておりましたが、法改定により、平成14年12月1日から「野焼き」や「簡易焼却炉」によります、すべてのごみ等の焼却ができなくなりました。現在、願成寺にあります3基の焼却炉もすべて使用禁止となり、撤去いたしました。
  したがいまして、今後、墓参の折いらなくなりましたお花などのゴミにつきましては、下記のごとく、ご処理をいたしたく存じますので、ご理解とご協力をお願い申し上げます。



ゴミの分別

 ゴミは、次の4種類に分別してお出し下さい。

「燃えないゴミ(ビン・カン)」
市のゴミに出します
「土に返すゴミ(花・香花)」
寺にてチップにして土に返します
「土に返すゴミ(草・落ち葉)」
寺にて土に返します
「燃えるゴミ(紙・ビニール)」
市のゴミに出します

いらなくなりましたお塔婆は、寺にてチップにして土に返しますので、ゴミ箱の脇にお置き下さい。
ゴミ箱は水屋(水道)の近くに用意いたします。
飲物や食べ物は、動物が散らかしますので、お参りの後はお持ち帰り下さい。
お手数をおかけいたすことばかりでございますが、ダイオキシンをなくし、きれいな地球環境のため、切にご理解とご協力をお願い申し上げます。








▼ 文学講座のお誘い
 願成寺公開文学講座といたしまして、『源氏物語』を読んでおります。写本(青表紙本、新典社刊)と活字本とを対校しての講読ですが、参加者全員で声を出しての読みますので初心者の方でもご自由に参加いただけます。
現在、「須磨」の巻に入ったところで、朧月夜との事件から都に居られなくなった光源氏が、須磨へと旅立つところです。
ご一緒に、光源氏とともに須磨への旅を始めましょう。

開催日
 毎月 第1,3土曜日(変更あり)
開催時間
 10時〜11時30分
場所
 願成寺庫裡
費用
 無料(教科書はお求めいただきます。 1000円〜2000円)
申し込み
 電話、FAX、E-mail

※ご参加をご希望の方は、檀家、非檀家を問わず、どなたでもご参加いただけます。







 ラジオが唯一の情報源であった時代から、新聞やテレビが加わり、小学生までがパソコンや携帯電話を利用している時代となった。ひと昔前の学生の楽しみというと麻雀とお酒が定番であったが、町から雀荘が消え泥酔した学生の姿は少なくなった。これも学生たちの娯楽に選択肢が増えたからであろう。世の中はあらゆる選択肢が増え、情報のアイテムが氾濫し、多様性の時代といえよう。

 教化活動の基本としては、葬儀や年忌法要を始め、修正会、彼岸法要、施餓鬼会、十夜法要と、あらゆる法要での説法であろう。印刷技術の発達によって掲示板伝道、文書伝道ハガキ伝道がおこなわれるようになった。拙寺でも「ハガキ伝道」や「テレホン説法」の経験があり、教化活動も多様化してきたなかで、時代のニーズにあった教化活動の一つとして、「 願成寺メールマガジン 」と名付けてメールマガジンを発行することにした。

 寺院という特質から、教化の対象となるのはお年寄りという現実は否定できない。また檀信徒全体からすれば、どれほどの人が、インターネットを利用しているかと考えるとその効用ははなはだ微少と思われるが、新しい形での教化活動として実験的に発信することにした。

 インターネットによるメールマガジンの配信は、お寺に足を運ぶことの少ないあらゆる世代の皆さまに語りかけることができるであろう。また拙寺のお檀家さま以外の皆さまとも、お寺とのつながりを持たせていただく方法としては最良と考えております。

 毎月二回とは申せ、浅才なわたくしにとってはかなりの重圧となっていくであろうことは想像にかたくない。三回で中止するわけにもいかず、発信を決意するのに一年もかかった始末である。

 諸大徳の応援をお願いいたしながら、皆さまとの交流の場としていきたいと存じます。よろしくお願い申しあげます。

 天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久


 







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