願成就院が注目を浴びている。伊豆の国市韮山にある高野山真言宗の寺院で、北条政子の父親北条時政が、源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したといわれるが、北条氏の氏寺(うじでら)というべきであろう。子の義時、孫の泰時の造営とで壮大な伽藍を有する大寺院として栄華を誇ったが、度重なる戦乱でそのことごとくを失ってしまった。しかし運慶作の阿弥陀如来坐像(重要文化財)、眷属の不動明王ニ童子像、毘沙門天像は現存しており、運慶の東国での活躍を物語っている。
ところで、願成就院と拙寺願成寺とは少なからず関係があったと考えている。まずその第一が山号である。「天守君山 願成就院」、拙寺は「天主君山 願成就寺」、過去帳によると古くは、「願成寺」ではなく「願成就寺」であったことがわかる。拙寺は、旧鎌倉街道にに面しているところから、願成就院の別院として、街道筋に建てられたのかと思われるが推測の域を出ない。
また現在は浄土宗であるが、草創期は願成就院と同じく真言宗であったと思われる。
その信仰の中心はお不動さんであった。境内には浪切不動尊(なみきりふどう)の石像と数メートルにおよぶ碑文がある。不動尊は大正元年に再興されたものであるが、明治から大正にかけては浪切不動信仰が盛んであったという。現在の沼津市口野内浦の漁師さんたちは、海の安全の祈願に願成寺浪切不動尊に詣で、多くの絵馬を奉納していたのである。
建立当時を知る老人は、子供のころお寺に来ると正面に立つ真っ赤なお不動さんが怖かったという。また、大漁であると、漁師さんたちが魚を奉納に来たので、魚には不自由しないお寺であったという。
そもそも浪切不動尊とは、弘法大師が長安の青龍寺恵果阿闍梨から授かった霊木に、空海自らが刻んだ不動明王像といわれ、空海が唐からの海上で激しい暴風に見舞われた時、明王は剣を抜き波風を切り、無事帰国することができたと云われている。爾来海上の安全を祈願する信仰が全国に広まったという。そんなお不動さんが寺の歴史を物語る。
古老たちは、まずお不動さんに拝礼してから、自分の墓参りに行っているようである。海の安全を願うというよりも、怖かったお不動さんに対する素朴な畏怖の念からとでもいったのがよいだろう。
じつは本堂の位牌壇にも木彫のお不動さんが祀られている。大方の人はその存在すら気がつかないようであるが、時たま私は手を合わせることがある。何の法要もしないことの後ろめたさを懺悔するがごとくの合掌である。同時に寺の歴史に思いを馳せるのである。
「よし、改めて拝そう」と、まずお身拭い(おみぬぐい)である。祭壇より何十年ぶりかに下りていただき、長年の埃(ほこり)をお祓いする。矜迦羅(こんがら)・制?迦(せいたか)童子を脇侍(わきじ)に配した典型的な三尊形式である。ガラスの眼が入れられ、お不動さまの特色である一方の眼は天を視つめ、もう一方は地を見つめている。歯で上下の唇を噛んでいること、左側に弁髪を有することなど、子細に拝させていただいた。
新年早々、改めて寺の歴史に思いを寄せ、お不動さんに手を合わせ、気持ちのよいものであった。
【氏寺】うじ‐でら
氏族が、一門の繁栄、先祖の追善、死後の幸福などを祈るために建てた寺。蘇我氏の向原寺、藤原氏の興福寺など。(大辞林)
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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