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何年前のことであろうか、お檀家さんの葬儀で火葬場に行ったときのことである。お檀家さんのご供養が終わって帰ろうとすると、職員の人が声を掛けてくる。無論、長い間のお付き合いである。
「願成寺さん、これから行き倒れの人の火葬をするんですが、手
を合わせていただけないでしょうか、何もしないで火葬するのは…」 と。
早速に棺の前でご廻向を申しあげた。職員さんの気持ちに察して余るものがあった。
話は変わるが、テレビのホームドラマなどで、家族での食事の場面で、やはり「いただきます」の声とともに、皆手を合わせる。やはり家族がそろって食事をするときには、合掌は視聴者に受け入れられる形であろうか。信仰を意味するものではないが、その番組のディレクターには合点のいくことであろう。
ところで、子供達にとっては、家族からペット、そして昆虫まで死ぬと天国に行ってほしいと思っている。生き物がその命を終えたとき、その生き物は天国に生まれ変わるというのである。どうして無意識のうちに死後を天国に設定するのであろうか。仏の世界は出てこないのである。
大方の家庭では、亡くなった人を仏壇で供養しており、お盆にはお墓参りに行っているのであろう。しかし、目の前の死に対しては躊躇せず天国へ行くことを選択する。大きな矛盾があるが、子供たちにはまったく疑問がない。
これも昔のことであるが、ある人が「葬式なんかまったく無駄なことだ」といった。先代住職が即座に言った。
「あなたは結婚式を挙げましたか。結婚式もお葬式も同じ事です
よ。誕生して祝う心、結婚して祝福する心、亡くなられて悼む心、
皆同じなんですよ」と。
お寺で手を合わせ、神社で時にはキリスト教の教会であっても手を合わせるのが、日本人の大方の宗教感であろうか。ある人はそれを節操がないと言うし、またある人は宗教的寛容だという。どう解釈するかは、なかなか難しいことのように思えるが、そうした宗教心であっても大切にしたい。
仏教徒であるとか、キリスト教信者であるとか、イスラム教を信仰しているとかは別として、本来、人間には宗教的な心が備わっていることを大切にしていきたいと思う。
そしてわれわれ僧侶は、「人間には宗教的な心が必要不可欠であることを自覚していただく」、その教化にあらゆる機会を通して邁進しなければならない。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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