源氏物語のお話ですが、柏木の最期の場面を紹介いたしましょう。光源氏のお屋敷の庭で蹴鞠(けまり)がおこなわれ、女たちも若い男たちの姿を楽しんでおりました。無論、女たちの前には御簾(みす)が下がっており、決してその顔を見ることができないのが普通でした。その時です、事件が起きました。光源氏の正妻である三の宮の飼い猫が、その御簾に引っかかり、三の宮の顔が見えてしまったのです。女たちは、その素顔を人前に曝すことは、決してなかった時代です。普段であれば、女たちの顔の前には扇があって、そう露わには見られてしまうことはないのですが、若い女たちには御簾や木丁があると油断していたのでしょう。柏木は、一目見ただけですが、三の宮に心を奪われてしまったのです。
来る日も来る日も、三の宮のことが頭から離れません。その猫を借り入れて、溺愛をするのですが満たされません。しかし、一夫多妻の社会といっても、相手は天下にとどろく光源氏さまの奥さまなのです。人を介してほんの少し会うことをするのですが、それが事故を引き起こしてしまい、光源氏の知れるところとなってしまったのです。それは貴族社会で生きていけないことを意味しており、自責の念から床に就いてしまうのです。
当時は、親が健在ですと、男とて実家にて養生をしたようです。父の致仕大臣はその財力にまかせて、息子の病気平癒の加持祈祷をおこなうのです。山奥にいる聖や修験者にいたるまで呼び集められます。陰陽師は「女の霊」が着いているというのですが、その正体が現れません。それもそのはず、原因は物の怪にあったわけではないのですから。
自らの死を避けられないと悟った柏木は、憔悴(しょうすい)の一途を辿り、辞世とも思える句をしたためます。その相手は、妻でもなく親でもなく、三の宮でした。
いまはとて 燃えむけぶりも むすぼほれ
絶えぬ思ひの なほや残らむ
「これが最期と私を火葬する煙もこの世に留まり、私のあなたへの思いも同じように、やはり残ることでございましょう。多少なりとも哀れと思っていただけないでしょうか」と読みます。
何とはげしい歌でしょう。普通であれば、「あなたさまにもご迷惑をお掛けいたしましたが、死して邪なる恋も終わりを告げることでしょう。私も楽になれます」といいますのが一般的でありましょう。
仏教では、死して仏さまになりますと、今生での恨みや憎しみはすべて消えてしまうのです。いがみあった者でも極楽で出会いますと、にこやかに会釈をするようになるのです。それが死ぬことであり、私にとりましては往生ということになります。死して恨みを残すなどとは、とんでもないことでございます。皆さまはどうお考えになりますか。
物語は、そこからまた、新なストーリーが展開するのでしょうが。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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