昨年のお十夜法要で、落語を奉納してくれた落語家林家正雀師匠が2月の国立演芸場中席(なかせき)に出演している。落語のあとの大喜利は、鹿芝居で「芝浜川財布」が演じられた。
「芝浜」のあらすじを紹介しよう。(Wikipediaより)
魚屋の勝は酒におぼれ、仕事に身が入らぬ日々が続く。ある朝早く、女房に叩き起こされ、嫌々ながら芝の魚市場に向かう。しかし時間が早過ぎたため市場がまだ開いていない。
誰も居ない芝浜の美しい浜辺で顔を洗って煙管を吹かしていると、そこで偶然に財布を見つける。開けると中には目を剥く程の大金。有頂天の魚屋は自宅に飛び帰り、仲間を呼んで浮かれ気分で大酒を呑む。
翌日、二日酔いで起き出た魚屋に女房、こんなに呑んで酒代をどうするのか、とおかんむり。魚屋は拾った財布の件を躍起になって訴えるが、女房は、そんなものは知らない、と言う。焦った魚屋は家中を引っ繰り返して財布を探すが、何処にも無い。魚屋は愕然として、ついに財布の件を夢と諦める。以来、魚屋は酒を断ち、心を入れ替えて真剣に働き出す。
懸命に働いた末、生活も安定し、身代も増え、やがていっぱしの定店を構えることが出来た3年後の大晦日の夜、魚屋は妻に対してその献身をねぎらい、頭を下げる。ここで、女房は魚屋に例の財布を見せ、告白をはじめる。
あの日、夫から拾った大金を見せられた妻は困惑した。横領すれば当時は死罪にあたる。江戸時代では10両(後期は7両2分)盗むと死罪だ。長屋の大家と相談した結果、大家は財布を拾得物として役所に届け、妻は夫の大酔に乗じて「財布なぞ最初から拾ってない」と言い切る事にした。時が経っても遂に落とし主が現れなかったため、役所から拾い主の魚屋に財布の大金が下げ渡されたのであった。
この真相を知った魚屋はしかし、妻の背信を責めることはなく、道を踏外しそうになった自分を助け、真人間へと立直らせてくれた妻の機転に強く感謝する。妻は懸命に頑張ってきた夫の労をねぎらい、久し振りに酒でも、と勧める。はじめは拒んだ魚屋だったが、やがておずおずと杯を手にする。「うん、そうだな、じゃあ、呑むとするか」しかし思い立った魚屋、次には杯を置く。
「よそう。また夢になるといけねぇ」。
女房は無論、正雀師匠である。おかみさん役は、嵌(は)まり役に思えるからである。人情噺として、いかに真相を伝えるかが見物である。
大喜利の後、出演者全員が挨拶、十数枚の手拭いが撒かれた。最後尾に居た私どもの所にも一本の手拭いが飛んできた。きっと夫婦円満のよいお守りとなろう。
【大喜利】
1 大きく切り分けること。また、その切り身。
2 (縁起をかついで「大喜利」とも書く)
芝居で、その日の最終の幕。
江戸時代の歌舞伎で、二番目狂言(世話物)の最終幕。幕末以後の歌舞伎では、二番目狂言のあとにつける一幕物。切(きり)狂言。
寄席で、とりの終わったあとにする演芸。大ぜいで珍芸・謎(なぞ)掛け・言葉遊びなどをするものが多い。追い出し。
3 物事の終わり。結末。
「誰の恋でもこれが―だよ」〈独歩・牛肉と馬鈴薯〉
”おお‐ぎり【大切(り)】”, デジタル大辞泉, ジャパンナレッジ(オンラインデータベース), 入手先<http://www.japanknowledge.com>, (参照 2012-02-14)
【鹿芝居】
素人がおこなう芝居で、とくに落語家の芝居を指す。噺家芝居(はなしかしばい)の「はな」が取れて、「しかしばい(鹿芝居)」となった。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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