今年は、残暑が厳しく9月中旬になってもまだ30度を超す日が続いている。
しかし、さすがに秋分の日前頃から、朝晩は少し涼しくなって来た。
私はこの時期の、秋の気配を感じられる夕陽を観るのが好きだ。自坊の近くに、富士山と共に丹沢連峰が遠望できる、広々とした農業専用地域がある。田んぼの稲穂が黄金色になりはじめている時、天気の良い日だった夕方に、時々散歩をする。雲は朱色に染まったり、様々な色の変化があり、落日の美しさを観る事ができる。
この時期に思う言葉が「日想観」だ。
日想観とは、浄土三部経のひとつ観無量寿経の中で説かれている、お釈迦様の教えから来ている。インドのマガタ国の王子である息子の阿聞世(あじゃせ)によって牢に閉じ込められた、母の王妃である韋提希(いだいけ)夫人が、お釈迦さまに救いを求める。
「王舎城の悲劇」で始まる、このお経の中で、「業障(ごっしょう)を浄め除き、諸仏の前に生まれる」方法として、阿弥陀仏と極楽浄土の観想法を、十六の教えで説いている。その中で一番初めに出てくるのが日想観になっている。
日想観の意味するところは、阿弥陀仏のおられる西に沈む、夕陽を拝して極楽浄土を感じる修行の一つだ。
日想観の名所に、大阪市天王寺区の四天王寺がある。法然上人二十五霊場第六番霊場になっている。
その四天王寺に、九月初旬に増上寺布教師会研修会の参加者、四十数名と共に私にとっては初めての参拝させていただいた。新鮮な思いがしたのは、寺院入口に巨大な石の鳥居がある事だ。西大門(極楽門)の外側に位置する石の鳥居は、元は木造であったが、永仁2年(1292)に石造りに改められ現在に至る。年号が判明している物としては、日本最古になる。
石の鳥居の中央に掲げられた扁額は、縦1.5メートル、横11メートルで、鋳銅製?形になっている。その中の文字には
「釈迦如来 転法輪処 当極楽浄土 東門中心」
とある。意味は、「釈迦如来が法を説き、ここが極楽浄土の東門の中心である」と言う事になる。
平安時代には、四天王寺は日想観の聖地であった。石の鳥居と西大門との間には、念仏三昧の関連諸堂があり、浄土信仰の霊地として隆盛を極めていたという。
四天王寺は、聖徳太子が飛鳥時代に創建したと言われている、我が国最古の寺だ。この寺が日想観の名所になった理由は、昔の四天王寺付近は難波津(なにわのつ)といわれていて、湾が今よりも東に深くはいりこんでいた。寺がある高台から眺めると、西方の海に沈む夕陽がことのほか美しく西方浄土を思わせる絶景だったからだ。
そして、都の西方を守護する鎮護国家の官寺だったために、四天王像は西を向いていた。海の彼方から来る敵を睨むように、新しい伽藍になる昭和38年(1963)までは、横一列に並んでいた。広々とした境内の中には、多くの堂宇がある。和宗総本山としての、御本尊は金堂に安置されている救世観音菩薩だ。
ひき続き、法然上人二十五霊場第七番、四天王寺西大門と石の鳥居の、すぐ坂の先にある一心寺を参拝させていただいた。
法然上人は、一心寺で文治元年(1185)の春彼岸の頃に、日想観を修められた。その時代には、大阪湾はもちろん、四天王寺と同様に遠くには淡路島と六甲山を望み、明石海峡に沈む夕日は格別の美しさであったと伝えられている。
観無量寿経の中で、絶望の淵に立っていた韋提希夫人に、お釈迦様が西方浄土を観想する教えをお説きになったのが、日想観だ。
夕闇が迫る中、光輝く希望に満ち溢れる太陽は、心の暗がりに光明をもたらす慈悲の心になる。これから益々夕陽の美しい季節になって来る、西方に沈む太陽を拝む日想観を、おすすめしたいと思う。
桂林寺住職 永 田 英 司
|