冬の穏やかに晴れた日、機上から霊峰富士を眺めることが出来た。それは、12月11日から一泊二日の日程で、大本山光明寺布教師会の布教教化研修会があったからだ。
羽田空港から福岡空港に向かう途中、東京湾の向こうに房総半島があり、私の住む神奈川県の横浜や湘南海岸、三浦半島の全貌を見渡せた。
その風景の中に、冠雪した富士山は八面玲瓏(れいろう)と称賛される崇高な美しい姿だった。なんと素敵で贅沢な事だろうと思い、良い旅になる予感をさせてくれた。
今回、九州への研修会の目的は、浄土宗第二祖聖光上人の足跡をたどる研修会だ。
まずは、九州で唯一の浄土宗大本山である福岡県久留米市の善導寺を参拝させていただいた。
大本山善導寺は、もともと井上山光明寺と言っていたが、13世紀始め頃に聖光上人を開山として、浄土宗寺院になる。善導寺の名は、宋から伝来した善導大師像を安置してからになった。
長く広い参道を歩いて、安政6年(1859)に再建されたという三門を入る。広い境内の中心に本堂があり、二百余年の歴史を語る入母屋造、本瓦葺で、庫裡と供に国指定重要文化財になっている。
山内は自然に恵まれている為に、古木も多いが、特に三本の大きな楠の木は見事で、樹齢八百年を超えているという。
本堂でお勤めの後に、御法主 阿川文正台下の特別講義として
「末代念仏授手印(まつだいねんぶつじゅしゅいん)」とその伝承 について
の講題で、お話をいただいた。
最後に宝物殿を拝観。特別に「開山聖光上人御絵伝」一幅をみることが出来た。
説明によると、四幅からなる聖光上人の絹本着色掛幅絵伝で、誕生から御臨終までの一代記と、大本山光明寺を開山した、浄土宗第三祖良忠上人の紹介まで描かれている。
拝見したところ画風は、土佐派の大和絵であり、色づかいも明るく、知恩院所蔵の国宝「法然上人絵伝(四十八巻伝)」を研究の後が感じられる素晴らしい御絵伝であった。
この作品を描いた画家は、相模国小田原町善光寺松蔭宣龍上人だ。
弘化3年(1846)長野県波田村に生まれ、甲州の円福寺教学和尚に師事、小田原沼田の荒廃した寺を復興、博学多才で自ら御本尊善光寺如来も彫刻された人であったという。
善導寺第五十九世累誉宣隋台下は、松蔭上人に聖光上人御絵伝を依頼されて完成ののち、大正6年(1917)開山御入滅六百八十年遠忌慶讃法要が盛大に厳修されたと伝えられている。
浄土宗の宗祖法然上人の御忌である、平成25年1月25日に神奈川教区で発行される良忠上人御絵伝と良忠寺縁起御絵伝を描いた北邨賢誠上人は、松蔭宣龍上人と名字は違うが、長男になるという事が判明した。
親子二代で、浄土宗の第二祖聖光上人と第三祖良忠上人の御絵伝を画家として描いていた事になる。
このような形で布教を成就されていた、先達がおられたことに感謝し、今後の布教活動の指針とさせていただければと思った。
次の参拝の寺院は、福岡県八女市の天福寺であった。
嘉禎2年(1236)9月8日に、天福寺で聖光上人(75歳)と、良忠上人(35歳)が出合われて、翌年の8月まで11ヶ月の間、天福寺の南方、地福寺跡に良忠上人の宿として草庵を建て、毎日天福寺へ通い浄土の法門を学ばれたという。
翌日は、熊本県にある往生院(新往生院)を参拝。寺宝である聖光上人自筆と言われている「末代念仏授手印」を拝観。次に近くの飛地境内にある往生院(旧往生院、古往生院)も案内してくださり、こちらは阿弥陀堂とも呼ばれていて、安貞2年(1228)に聖光上人が「末代念仏授手印」を著わした所として知られている。
短い時間の急ぎ足の研修会であったが、良い旅になる予感を、霊峰富士が与えてくれたとおりに、充実した浄土宗第二祖聖光上人への遺跡巡りであった。
【末代念仏授手印】まつだいねんぶつじゅしゅいん
浄土宗の真義を伝える書であり、「生極楽伝承本」として善導寺に伝わる。序文は聖光上人の筆、安貞2年(1228)に述作された。
(浄土宗大本山善導寺、パンフレットより引用)
桂林寺住職 永 田 英 司
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