大阪市立桜宮高校の生徒を自殺に追い込んだ事件は、解決の糸口すら見えない状態である。さらに日本女子柔道の暴力パワハラ事件がトップ選手15人によって告発された。暴力とはいわないまでもパワハラ事件は、学校ばかりでなく社会では恒常化されているのではなかろうか。この2つの事件から、さらなる告発がされるように思う。
そもそも桜宮高校の体育科とはどのような学科であろうか。同校のホームページには次のごとくの説明がある。
全員が運動部に所属し、体育活動の実践を通し高度な技術を学
び、「知・徳・体」の調和のとれた人格形成ならびに体育の振興発
展に寄与する人材の育成を目指します。
また、将来は社会の各分野で体育活動の指導者となるため、大
学へ進学し、見識を広めることを目指します。
体育を主体として人格形成をするというのであるが、報道されているところからは、その本来の目的である人格形成としての体育教育の位置付けが見えてこない。体育科入試の中止に在校生や父兄の発言は、将来プロスポーツ選手になるための手段として桜宮高校の位置付けであるように思われる。高校にはいわゆる商業科や農業科などの特科があるが、体育科は同列にはならない。
商業科が将来商業に従事すべき人材の育成を目的とするならば、体育科は体育に従事すべき人材の育成ということになる。体育に従事することはプロスポーツ選手を意味するのであろうか。ここに問題がある。どの職業でも競争はあるが、決して1番を目指しているのではなく、その職業に専念できる人間性と技術を求めているのである。
しかし、プロスポーツ選手は常に1位だけを目指す。優勝しなければ意味のない世界なのである。ここに教育を逸脱した根性主義や過度の指導が生まれ、強いては暴力やパワハラとなっていくと思われる。
私は中学の時、音楽の先生に混声合唱団に入るよう進められた。声楽部がコンクールに出場するために男子生徒が必要だったからである。声だけはよく通るが、じつは凄い音痴である。個別指導も受けたが、そう簡単にできるものではない。
コンクール出場の前に先生に呼ばれ、当日の見学を言い渡された。確かに音程をはずすのは、私ともう1人の生徒であった。自分でもわかっていたので、出場できないことを羨む気持ちはなかった。そこには先生と私との間に、十分な努力と、納得のいく説明があったからである。
今考えるに、先生には大変な思いがあったようだ。コンクールに参加する以上、優勝を目指すのは当然である。しかし、そのために外した生徒へのエネルギーも半端なものでなかったからこそ、私にはよい思い出として残っているのである。
大方のスポーツは1番を目指すものであるが、1番になれるのは1人、または1チームだけである。あとの生徒たちは目標に到達できなかったことになる。こうしたとき、指導者は、1番をとれなかった生徒を如何に体育を通して人格形成を育成するかに、時として1番の生徒を育てる以上のエネルギーが必要であることを理解できていないようである。
スポーツで挫折して、自分の人生までも挫折した事例に多く接する。一部のことであるが、1番をとった選手が、人間としては失格する報道も少なくない。
きっと1番をとったものが、優秀な成績のものが、よき指導者であると思われているに違いない。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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