宗祇法師が、わが願成寺で『古今和歌集』の奥義である「古今伝授」を、東常縁(とうのつねより)から授かったという。するとわたしも俄然、宗祇法師の出自がら業績まで興味が湧いてくる。
宗祇法師は連歌師として大成するも、その旺盛な文芸観は和歌にも及び、古今伝授を受け、さらには相伝にまで及ぶ。その奥義は、東常縁の子である東素純、さらには公家であり朝廷との繋がりを持ち、また当時の文芸の中心人物である三条西実隆(さんじょうにしさねたか)に伝授されていく。ますます宗祇法師に興味が湧いてくる。
今から500年前の時代であり、宗祇法師も数々の連歌集や歌論書を残すが、その時代の生き様は思うように知ることができないのが現実である。そうしたなかで三条西実隆は『実隆公記』という日記を残してくれた。
部分的欠損があるものの63年間にわたる日記であるので、その時代を知るには好史料といえよう。また宗祇法師は82歳、実隆は83歳と長寿であり、文芸ばかりでなく、互いに利害関係もあったところから、その親交は長く深いものであった。
したがって必然的に『実隆公記』は、読まなければならない史料といえよう。枕もとに電子辞書とともにおいて、少しでも目を通すことに心がけているというと、神妙に聞こえるかも知れないが、現実は厳しいものがある。
恥ずかしいことに、日本漢文で書かれた日記は思うように読めないのである。1ページと読まないうちに熟睡となる。これではほとんど読んでいないことと同じであるが、このところ長く続いている。
きっと、関心のあることは長続きするという一語であろうか。睡眠不足もなく、健やかな毎日である。
【実隆公記】(さねたかこうき)
室町時代の公卿三条西実隆の日記。実隆20歳の文明6年(1474)正月から、死の前年82歳の天文5年(1536)2月までの約63年間にわたる日記で、その間欠落した部分もあるが、巻子本・冊子本合わせて尨大なものである。原本は三条西家に伝わっていたが、現在は東大史料編纂所の蔵に帰している。昭和6年(1931)から同19年までの間に、芝葛盛・三条西公正・是澤恭三の校訂により、大永6年(1526)末までの日記が、太田藤四郎の主宰する続群書類従完成会太洋社から刊行された。第二次世界大戦後しばらく中絶していたが、高橋隆三・斎木一馬の努力で昭和42年5月に全部の翻刻刊行が完成した。記主実隆が後土御門・後柏原両天皇の信任を得、室町将軍からも重んじられた公卿であるだけに、その日記は当時の朝廷の儀式や動静、公武の消息、とりわけ式微した皇室経済の実情などを知る上の好史料である。また、この日記には応仁・文明の乱の戦火で荒廃した京都の様子、戦国時代的相貌の一段と顕在化しつつあった当時の不安な世相や人心の動揺がいきいきと描写されており、かつ武士の侵略による荘園の不知行化と年貢の減少、それに代わる青苧(あおそ)座の本所料の三条西家家計に占める比重の増大などが、具体的な数字で克明に記されており、この日記は当時の社会史・経済史の研究にも豊富な材料を提供するものである。とりわけ実隆が生来好学の士で、一条兼良のあとをうけて中世和学の興隆につくし、古今伝授の正統をついで当代最高の文化人と仰がれた存在であるだけに、この日記には当時における古典の書写・校合の仕事、『源氏物語』『古今和歌集』などの講釈の盛行、宗祇・肖柏・宗長ら連歌師の活動、また彼らを媒介にしての実隆と地方の大名・土豪らとの文化的な交渉、公家文化と禅宗文化との融合の傾向、公家社会における浄土宗の浸透など、当代の文化史の研究に資する貴重な史料が多くふくまれている。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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