毎年この時期になると、近在の農家の人々とともに「馬頭観音の供養祭」がおこなられる。20軒ほどの農家の人が集まるが、正確にいうと今は農業で生計を立てている人はほんの僅かで、家畜を飼っている人は一人である。
耕耘機が普及するまではどこの農家でも飼育しており、役用牛として活躍をしていた。そして亡くなると河川敷に埋葬されたためであろうか、河川敷には馬頭観音が祀られていることが多い。最近では河川の改修にともない、供養塚の移転に塚の供養を頼まれることがある。埋葬された場所と塚のある場所が異なっていくのが、多少残念である。
そもそも馬頭観音とはどのような仏さまであろうか。
六観音の一つ。別に馬頭菩薩・馬頭持明王などとも称される。慈悲を本誓とする菩薩であるにもかかわらず、この観音像に限って常に恐ろし気な忿怒相に表現され頭上に白馬の首をつけている。もちろんこの忿怒形はあらゆる魔障を消滅するための方便で、いわゆる衆生の六道四生といわれる生死すべての苦しみを断つことを内容とするものである。頭上の馬首は飢馬が草をむさぼり喰い、渇馬が濁水を呑飲する有様になぞらえて、この観音が諸諸の悪趣を食する菩薩であることを示すためである。(国史大事典)
また「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。さらに、馬のみならずあらゆる畜生類を救う観音ともされ、六観音としては畜生道を化益する観音とされる。
特に近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていった。(Wikipedia)
わたしが長年供養している馬頭観音もまさしく上記の通りであり、河川の改修の折、それぞれの農家の庭に祀られていた供養碑も一所に集められたものである。
法要の折、配布されるお札を見るといろいろなことが解る。まず富士山が画かれ馬頭観世音の座像が安置されている。その脇には和歌が添えられている。
ありがたや 神川(かんがわ)坂を ふみおりて まいりおがみて 菩提いのらん
下には馬と牛の尊像がある。そして講中の名が「宮町神川牛馬観世音」とある。三嶋大社の氏子達が居住する地域であるので「宮町」、河川としての名称は「大場(だいば)川」であるが、三嶋大社の脇を流れる川であるので、地元の人はみな「神川(かんがわ)」と呼ぶ。そして何よりも「馬」だけでなく「牛」も加えられていることである。
三島は東海道53次の11番目の宿場であり、天下の嶮(けん)と歌われた箱根を控えているので馬の文化も発達していたが、農耕に使われるのはみな牛であったように思う。どの農家でも黄色いいわゆる朝鮮牛が飼育されて、農耕の重要な労働力となっていたのである。したがって「馬頭観音」ではなく、牛も加わって「牛馬頭観音」と称されたのであろう。
大きな建物のない昔は、つねに富士山を背景として、牛とともに農作業する風景がごく自然なものであったろう。
すでに若い世代は牛馬による農耕は知らないのであるが、現在の農地を護ってきてくれたことに対する感謝の念に象徴される牛馬頭観音信仰は活き続けているといえよう。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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