新年を迎えると、気持ちが新しくなる。とても気分の良いものである。さあ今年も頑張ろうと思うときはテンションが上がっている時であろうか。時にはお正月が来たかといって何も変わるわけではないと、臍(へそ)が横を向くことがある。
ところでもうどれほど昔のことであろうか。息子と一緒にファミコンをよくした。低学年のころはおおかたわたしが勝ったのだが、そう何時までも親が勝てないことは明白である。ゲームのなかで気が付いたことであるが、負けが決まるとリセットを要求するのである。それには抵抗を感じ、ゲームを続けさせたことがある。ゲームでいい結果がでないとしても、そのゲームを最後まですることを教えたいと思ったからである。
我々が「生きていく」と言うことは、人生ではリセットができないことを教えたかったからである。我々人間はもっともっと厳しい世界で生活をしており、ゲームのようにやり直すことはできないことを教えたかった 。どんなことであれ、リセットせずにそこから出発しない限り、明日は開けないと思うからである。世の中でリセットすることは絶対にないことである。
ところで、宗祇法師(そうぎほうし)が東常縁(とうのつねより)から、我が願成寺で日本最初の「古今伝授」を授かったということは、おおかた首肯(しゅこう)されているように思う。その奥義は、宗祇法師から5人の文人へと伝授されていくが、そのなかに三条西実隆(さんじょうにしさねたか)という公家がいる。実隆20歳の文明6年(1474年)から83歳の天文5年(1536)までのじつに63年間の日記「実隆公記」が現存しており、当時の公家社会の文化を知る格好の資料となっている。
その日記の明応2年(1493)の正月朔日に、次のように記されている。
「四海昇平之春、万民"りっしんべん+豈"(がい)楽之時、
尤珍重々々」
四海(しかい)は、国内。天下。世の中。また,世界。
昇平(しょうへい)は、国が栄えて世の中が平和であること。
"りっしんべん+豈"(がい)楽(らく)は、「"りっしんべん+豈"(がい)」も
「楽」もともに「たのしむ」と読む。
尤も(もっとも)は、道理にかなっていて、なるほどとうなずける
ようす。
珍重(ちんちょう)は、至極結構の意。
応仁の乱(1467〜1477)が終わったといえども、世は戦乱のなかにあっただけに、つかの間の平和を愛でているのである。
やはり、お正月は歴史のリセットではないことは無論であり、人生においても同じであるが、今までの自分を踏まえての新しい出発としたい。そして実隆のように世の中に対しても目を向けたいと思う。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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