戦後間もない頃の話である。ある少年は、高校になると図書館から本を借りてむさぼり読んだという。
また同時に家業の農家の仕事の手伝いにも精を出したという。畑でのゴボウ掘りで、ゴボウの先端がすこし折れただけでも商品価値が下がってしまうので、細心の注意が必要だったという。腰を曲げてやるきつい作業で、あと一押し辛抱強く掘り下げ、慎重に根回しするときれいに抜けたという。高校から大学と、家事の農業を手伝いながらの青春時代を回想している。
社会に出てあと一歩の詰めが必要なとき、このゴボウ抜きの精神は、大いに役立ったというのである。
私はどうであったであろうか。無論、寺に生まれ育ったのでゴボウ抜きの経験はない。小学生時代は、父とともに毎朝境内地の掃除をしたものである。30分ほどであったが、今となっては楽しい思い出となった。
学校から帰るとランドセルを放り投げ、暗くなるまで野山を駆け巡り遊んでいた。中学高校生になると、掃除をするどころか、朝食もろくに取らずに家を出た。2時限が終わると早弁を食べ、昼には購買でパンを買って食べた。
「おやつ」といえば、寺であるので仏さまに上がった餅であり、農家からいただいたサツマイモである。決して裕福な状態ではなかったが、食べ物の量はおおかた満足のいくもので、そう不自由を感じることもなかったように思う。
本といわないまでも文章を読むということは、その作者筆者との邂逅(かいごう)を意味することであろう。すなわち筆者の体験や意見を、我が身に置き換えて追体験をすることのようにも思う。
自分で体験できることには量的限界があるが、文章を通しての出会いや追体験には限度がない。テレビのよいドラマやドキュメンタリーを見て、涙を流したり自分の人生をも揺すぶられることがあるが、テレビを見ることと活字を読むこととは別と考える。
人間生きていると少なからずいろいろなことが起きるものであり、それを教師とするか反面教師とするかは別として、自分の糧(かて)とすることができるかが問題であろう。
ゴボウ抜きは分からないが、父との境内の清掃を大切にしたい。境内の掃除を、我が子と一緒にしなかったことが後悔として残る。
明日から2泊3日で大本山増上寺に別時念佛に行ってくる。増上寺の阿弥陀さまがどんなお顔でお迎えして下さるかが楽しみである。
【邂逅】かいごう
(1)(─する)思いがけなく出会うこと。めぐりあうこと。
(2)(形動)まれなさま。また、偶然のさま。たまさか。希有(けう)。
(日本国語大辞典)
【別時念仏】べつじ‐ねんぶつ
仏語。念仏行者が特別の時に念仏すること。また、これに尋常と臨終を分け、尋常では特に一日・二日ないし七日・一〇日あるいは九〇日など、日を限って行なう念仏のことにもいう。別時の称名。別時の念仏。別時。べちじねんぶつ。
(日本国語大辞典)
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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