今回の投稿は、約2週間のコロラド州からユタ州のバイクツーリングの旅先から書いている。テント泊なのに雪に見舞われたり、4時間のドライブ中ずっと雨だったりと、いろいろ大変だ。
さて、今回は旅に出るたびに考えさせられる「トイレ」の話。
私は日本のトイレが大好きだ。成田や羽田空港に着くたび、トイレに入って暖かい便座とウォッシュレット、綺麗な床などに心底癒され、「帰ってきた!!」と嬉しくなる。トイレの中で用を足すよりも、外でしたほうがまだマシな場所もある。インドに長く滞在した末帰国した時など、綺麗すぎて落ち着かなったくらいだ。
ニューヨークには、私がたまに顔を出すLGBT(レズビアン、ゲイ、バイ、トランスジェンダー)センターなるものがあるのだが、そこのトイレは性別で別れていない。「みんなのトイレ」があり、みんな使う。なぜなら世の中には性自認と生物学的な性別が違う人、性自認が変化する人、性別がない人や性別に捕らわれない人もいるからだ。だれでも使える「みんなのトイレ」というアイディアはとても素晴らしく、私は性自認も性別も女だが、「ここってみんなウェルカムなんだな」って思うと使っていて嬉しくなる。
日本でも、「みんなのトイレ」なる「多目的トイレ」が増えてきて、高速のパーキングエリアや遊園地などにある。以前、私がテーマパークの翻訳をしたとき、マップとその説明文の中に「多目的トイレ」とその機能についての文章があった。それまで、多目的トイレは主に車椅子やオムツ替えをメインの用途としていると思っていたが、その時初めてオストメイト用のトイレも兼ねていることを知った。というより「オストメイト」という単語すら知らなかったのだ。
オストメイトとは、事故や病気などにより消化器や排泄器を損ない、腹部に排泄のためのストーマという人工肛門や人工膀胱と、「受け皿」となるパウチを取り付けた方たちのことを指す。
私には悪いクセがある。他人の悪意や無関心と自分が感じること(自分が感じる、というとこがポイント。実際のでき事とは切り離して)に対して、強い反感を抱いてしまう。例えば電車などで、ご年配の方や妊婦さんに気づいてるのにもかかわらず席を譲らなかったり、我先にと順番を待たずに乗車する人だったり。
オストメイトのことを調べているうちに、オストメイトの掲示板にたどり着き、多目的トイレを使っていたら「健常者が長い間使うなんて」と注意され、恥をかき傷ついた話がいくつか投稿されていた。
私は今まで自分が知らない事情を勝手に決めつけ、どれだけの人を傷つけていたのだろうか。他人が抱えている問題は、見ただけでは知ることはできない。私は、自分勝手な正義と自己中心的なヒロイズムで、人を裁いていたのだと思い知らされた。席を譲らない人には、譲れない理由があるのかもしれない。我先に、と行かなきゃいけない事情があるのかもしれないのに。
そこでトイレに話を戻すと、排泄という基本的な場所にも、「裁き」や「孤独」などが見え隠れしていて、「みんなのトイレ」「多目的トイレ」がもっともっと広がり、必要な人が必要な時に、「安心して使えるようになればいいな」、とすごく思う。
私は、「今日すべての人の物語を知らない」ということを覚えていますように。誰かの事情を勝手に想定せず、「みんながそれぞれのストーリーを、痛みを、苦しみを、そして喜びを抱えていること」を知る機会があったのなら、仲間や友達に対するような共感意識が生まれることを願う。
自分勝手な物差しで人を測らず、許しの心を持つ人でいられ、「悪意を持っている、自分勝手、無関心」だと感じる人のストーリーもそれぞれ大事であることを忘れないでいられたら、きっともっと人のニーズに敏感でいられるし、(オストミーみたいに)新しい知識にオープンでいられる。そうやって日々精進していきたいな。
きょうこ
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