来週の水曜日から私はネパールの災害支援に、約1ヵ月半出かける。いままでさせてもらってきた無給のお手伝いの中では、とっても短い滞在だ。災害支援では東北やフィリピンで活動してきたが(主に土木関係のお仕事)、素晴らしい国の回復に携わることができるのは本当にありがたいし、光栄だ。
しかし私は「ボランティア」という言葉が嫌いだ。この夏どこに何をしに行くのかを人に説明する時に、いつもちょっと困ってしまう。例えばクライエントが相手ならば、介護は「仕事」。親を相手にするのならば「当たり前」だったり「孝行」と呼んだり。そして知らない老人相手ならば「ボランティア」と、立場が変わると同じ行為の呼び方も変化する。辛そうな人に席を譲る。荷物手一杯の人のためにドアを開ける。「何か出来ることがあるからする」というような、自分たちの持っているリソースを有効的に使うことの延長として考えたら、いちいち名前を変えるべきことなのだろうか?それはただ「繋がり」や、「絆」はたまた「縁」と呼んでいいのではなかろうか?
ニューヨークに引っ越してきた当初、路上生活者の多さにびっくりした覚えがある。学校との行き帰りだけでも何十人にも会う。食べ物を買ったり施設を紹介したりするにも、自分が焦っていたり、何もあげるものがない時になんて言えばいいのかわからず、恥ずかしくも最初の数週間は、周りのほとんどの人たちと同じく、無視する様になってしまった。私のすごく嫌いだった、「ボランティア」と「私生活」を分ける様な生き方になってしまったのだ。
バレンタインの際、友人たちで集まり、生活に困っていたり、路上生活を強いられている方たちが集まることで有名な駅で、「ケアパッケージ」(チョコ、靴下、手袋、帽子などが入った袋)を配る機会があった。あまった飴玉とチョコはしばらくカバンの中に入れておき、路上生活者や物乞いをしている人たちがいる度に「こんなんでよかったら貰ってくれる?」と渡すことが出来た。
私のニューヨークでの生活態度がガラッと変わった。ニューヨークの極寒の天気もあったのだろうが、外を歩くことに鬱々した思いがずっとあったのに、それがまったくなくなったのだ。それで気づかされたのが、人を無視するという行為は「人間性」を無視しているということ。それが助けを求めている人ならば更にそうだ。そして周りの人間の人間性を否定し続けるということは、自分の人間性の否定や、孤立に繋がるということ。つまり、なにかを必要とする誰かのお手伝いができるということは、世界と自分が繋がる機会を与えてもらっているという再確認になった。「自分」が広がり、「人間」が広がり、代わりに孤立がなくなる。感謝すべきはこっちなのであるというとってもシンプルで大事な基本の再確認。
感謝があると、謙虚になれる。謙虚になれると落ち着きが与えられる。落ち着きがあると安心するし、安心があると自信も出る。自信があればチャレンジができ、チャレンジがあると成長があり、成長はさらなる繋がりへと導いてくれる。そして、繋がりとは、喜びと幸せなのである。誰かの、何かのためになれるということは、本当に自分を幸せにしてくれるありがたき恵みであり、幸せ者の証なのだなぁ、と思い起こさせてもらえた。
以来、私はカバンに必ず飴やチョコを入れるようにしている。たまに自分で食べちゃうけど。幸せ者の味がする。
きょうこ
|