時として、若いときに後戻りしたいと思うことがある。学生時代とはいわないまでも、あと10歳若かったらと思うのである。
それは何を意味しているのであろうか。きっと人生の一部をやり直したいという気持から、発生するのであろうか。そこにはやり直せば、もっと良くなるとか、うまくいくとかという気持がはたらくためであろう。若返りたいと思うことは、現状に対して不満や十分に対応できなかったということの証のようにも思える。
しかしそれは、だれ一人としてかなうことはないことであるから、考えないのがよいのであるが。
またある時は、Aの道を行こうか、Bの道を行こうか迷うことがある。熟慮して結論が出ない場合でも、結果的には優柔不断ともいえる。結局は自分で選択することなく、自分の方向性を、時間によって選択されてしまったという結果になるのである。時間は留まることがなく、すべての人に平等に1秒ごとに、その人の結果を出し続けているともいえよう。
そして、時間によって自分の人生をも決定されてしまっていることに、気がつかないのである。だが、つねに本人はその結果に、責任を持たなければならない。
自分の人生であるから、怠け心や享楽的な誘惑と闘いながら、時にはそうした気持をも人生の友としながら、積極的に歩もうと思うのである。しかし、大きな時間の空間や人生の流れのなかに、知らずに漂っているのかもしれないと思うと、焦躁感に嘖まれることもしばしばの私である。
こうした時、家族や友人の存在はじつにありがたいものである。世間的には駄目犬である我が家のペットさえ、その存在は計り知れないものがある。刹那刹那、安堵感に浸ることができる。
しばしば大本山である増上寺に参り、大殿の阿弥陀さまの御前に立たせていただく。
そして阿弥陀さまのお顔を拝します。「よく来て下さいましたね」「お仕事は、家庭は、健康はどうですか」「嬉しいことは、楽しことは、悲しいことは、つらいことはありますか」とつぎつぎとお声をかけて下さいます。とても優しいお姿に抱かれているように感じられるのです。そこには、刹那ではなく無限の安堵に包まれるわたしがいるのでした。
【焦燥感・焦躁感】しょうそう‐かん
いらだちあせる気持。
【苛・嘖】さいな・む
(1)他人の失策、欠点、法にそむいた行ないなどをしかる。叱責する。せめる。
(2)いじめる。むごく当たる。苦しめ悩ます。せっかんする。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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