気がつけばもう11月。ニューヨークはしばらく、赤と黄色に染まった葉っぱが映える秋らしい天気が続いていたのが、気がつけばもう木はほとんど裸んぼ。
この変化の時期は、私にとってとても特別だ。4月の投稿でも触れたけど、施設を通して「生き方を変える」決断をしたのが12年前の11月だったからだ。ずーっとそれまで、自分がまだ人間の形をしていることさえ疑うくらい自分が嫌いで、私なんかが存在してごめんなさいって思って過ごしていた。そして、まるで「ほら、私なんか価値のない人間でしょ?」と自分に言い聞かせるかのような生き方を選んでいた。
決断といっても、自分で「このままじゃあダメだ」と思い決断を下したわけではなく、「縁」でアメリカの施設に入れられ、違う生き方に出会い、少しずつ少しずつ、幸せって「選び」なこととか、日々生きれることが、大きな恵みなことなどを教えてもらい、気づいたらなんかやたらとメンタルの強い、うざいくらいハッピーな30代になっていた訳なのだが。
私の大好きで、人生のマントラ的にしている詩と祈りの3個のうち、一つは鉄板すぎて恥ずかしいけれどアメニモマケズで、一つはKent M. Keithというアメリカの教育人の詩で、もう一つがカトリック聖人、アッシジのフランシスコの祈りである。
フランシスコの祈りは「神様、私を平和の道具にしてください」と始まり、要約すると闇には光を、絶望には希望を、和合を、許しを、喜びを運べる道具にしてください。そして許されることより許すことを、愛されるより愛すことを、わかられることよりわかることを求められるようにして下さい、という祈り。(ぜひ全部読んでみてほしい。)そう出来る人、ではなくそれを求められる人になることを願うところが、またすごく好きな祈りだ。もちろん、デクノボーのように、アッシジのように生きたいものだが、たまーに陥るのが「私だって」病。今回、今の生き方を選んでから一回りまわった12年目の今月、久しぶりにひょっこり顔を出してきた。
なるべく、腹が立つことをされても、悲しいことがあっても、感謝を忘れず、誰の前で行っても恥ずかしくない行動を心がけ、論理的で、寛容のあり、愛のある人間であろうと毎日努力していたとしても、そう行った結果反対に寂しい思いをしたり、悔しい思いをしたり、ある意味「損」をすることは沢山あるのは、読んでくださっている皆様も共感いただけるだろうと思う。もちろんその分嬉しいことも、感謝することも、ありがたいことも数倍で帰ってくるのだけれど。でもたまーに、「私の分は?」ってなる。
「みんな自分に都合のいい具合の正直と、自分と他人が「いい人」と納得できる分だけの我慢と、選択的な尊厳で特に問題なく、うまい具合にいきてるじゃないか。私だけ、やれ尊厳、やれ誠実、やれ向き合うとかやって、損してなにやってるんだろう。けっ。」って、少しやさぐれる。もちろん、頭の隅っこで、深い意味の尊厳や、誠実さを知っていたり、実行できること自体がもう恵みであることや、数え切れない愛と助けと許しをいただいて今の自分があること、「正しい」を選べる人が偉いのではなく、選べるまでのサポートを沢山もらってきた証なんだっていうこともわかってる。けどたまにやさぐれたくなるのも本当。
そんな時にわたしが読むのが、Kent M. Keithの詩。
一部を日本語訳させてもらいます。
『【逆説的な戒律】by Dr. Kent M. Keith
人々は、非論理的で、理不尽で自分勝手だ。
それでも、彼らを愛しなさい。
善い行いをしたら、人々は利己的な下心の言いがかりをつけてくるでしょう。
それでも、善い行いをし続けなさい。
今日行った善は、おそらく明日には忘れられるでしょう。
それでも、善を行いなさい。
あなたの正直さと誠実さが、あなたを攻撃されやすく、傷つきやすくするでしょう。
それでも正直で誠実でありなさい。
助けが必要なに人に手を差し伸べた時、反対に攻撃されるでしょう。
それでも、助け続けなさい。
世界に最良のものを与え続けなさい。蹴り返されるでしょう。
それでも、世界に最良のものを与え続けなさい。
世界に、最良のものを与え続けなさい。』
「善」を行える人って、生まれつきそうなんだと、昔は思っていた。でもきっとみんな「けっ」と「それでも」の繰り返しで、蹴り返されても、傷付けられても、たまにやさぐれても、「それでも」、今日1日ずつ「善い」を選んで行けば、きっと振り返ったら善いの道を歩んでるものなんだと思う。 「それでも」やり続ける努力を、今日も私ができますように。
きょうこ
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