「清浄歓喜団」というお菓子をご存じでしょうか。
もう40年も昔のことであるが、真言宗の大学の先生から、「聖天さんにお供えするお菓子ですよ」といって頂戴した。京都八坂神社前の老舗「亀屋清永」が一子相伝、門外不出でつくっている。私どもの総本山知恩院の門前でもあり、時には登山の帰りに買って帰ることがある。
初めて口にした時は摩訶不思議な味がして、表現がよくないが、初めてコーラを飲んだ時のようにも思えた。
この清浄歓喜団をお供えする聖天さんは歓喜天のことであり、大日如来の権化身であるがため「聖」をつけて聖天さんという。
歓喜天は、もとインド神話の神で、仏教にはいって大自在天の子、韋駄天の兄弟とされた。その形は象頭人身で、単身と双身の像がある。単身像は二臂(ひ)・四臂・六臂などの別があり、刀・果盤・輪・棒・牙などを持ち、一定しない。双身像は、一つは男天で魔王、一つは女天で十一面観音の化身といい、男女和合の姿に作られる。治病、除難、夫婦和合、子宝などの功徳があるとされる(日本国語大辞典)。
その品書きには、遠く奈良時代、遣唐使により我国に伝えられた唐菓子の1種で、7種の香を入れて包み、そのほのかな神秘な香は仏教で言う「清め」の意であり、8つの結びは八葉の蓮華をあらわし、形は金袋になぞらえ、たぎった上質の胡麻油で、揚げてある。伝来の当時は中身は栗、柿、あんず等の木の実を、かんぞう、あまづら等の薬草で味付けしたらしく、小豆餡を用いるようになったのは徳川中期の後で、その秘法を比叡山の阿闍梨(あじゃり)より習ったと伝えられ、月の一日、十五日を中心に調製。勿論精進潔斎の上調進することは昔も今も変わりはないという。
「家族で神妙ななかに食するのは昔も今も変わりがなく、これほど緊張するお菓子はほかにない。
ところでライフワークとする三条西実隆の日記『実隆公記』を読んでいると、この清浄歓喜団が登場してくるのである。
永正5年(1508)2月10日、仁和寺真光院より「歓喜団五顆」を頂戴したとある。また梶井宮堯胤法親王や聖護院からも頂いている。当時寺院や上級貴族の進物として用いられたことが判る。「亀屋清永」の作か定かではないが、実隆と同じ仏菓を口にしたことを喜ぶ次第である。
また文明6年(1474)10月15日は、二尊院大聖歓喜天供の結願に出かけて、初めて本尊を拝見したとある。そして「下供頂戴」とあるから、供物である歓喜団を頂戴したのであろうか。
実隆はそのときの気持を「殊勝殊勝」と書いている。清浄歓喜団、実隆、私が有縁であることを知り、私も「殊勝殊勝」である。
【三条西実隆】さんじょうにし‐さねたか
室町後期の公卿。歌人。内大臣公保の次子。後花園、後土御門、後柏原、後奈良の四天皇に仕えて内大臣に至り、出家して逍遙院堯空と号した。飛鳥井雅親、宗祇に学び、三条西家歌学の祖となる。「源氏物語」をはじめ多くの古典を書写、校合、研究した。
【実隆公記】さねたかこうき
室町時代後期の公卿、三条西実隆の日記。記事は文明6年(1474)正月から天文5年(1536)2月にわたる。博学を以て知られ、公家にも武家にも重んぜられた実隆の日記で、朝廷や幕府を中心とする政治史の好史料であるとともに、当時の文化のありようを知る上でも重要。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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