今年はNYにしてはありがたいことに、まだチャリで通学できる気温だ。何回か0度近くにはなったが、まだ全然いける。ニューシャージー側に沈む夕日をハドソン川越に見ながら、川に沿ってずっと通るチャリ専用の通学路がもうすぐ雪に埋もれ、電車に乗らざるをえなくなることが残念だ。
公共交通機関って、すごくその土地がらが出ると思う。NYの地下鉄は、 車内に必ず食べ残しやゴミがあるし、なんの水かわからない水溜りもほぼ必ずある。とにかく汚い。手すりでポールダンスしだしたりする人や、「レディースアンドジェントルメン!」と張り切って自作の詩を披露する人もなどもいる。本当にいろんなタイプの人たちがいる。疲れていると余計疲れる時もあるが、隣の人や向かいの人とにっこり笑いあって話し合うことも多々ある。
週末になると ブルックリンに繋がる電車はほぼ必ず半分くらい動かなくなるし、10〜15分の遅れなんか当たり前だし、いきなりプラットホームが変わるなんてしょっちゅうだ。
東京は、1分でも遅れたら「ご迷惑をお掛けし・・・」のアナウンスが流れ、「空気を読む」ことを叩き込まれている日本人は、相当混んでいない限り、誰かが降りるのを感じ取り、さっとどいてくれることが多い。大きな声で話している人や電話で喋っている人は、嫌な視線を送られることも多い。車内はとっても綺麗だけれど、みんな下を向いて、本を読んだり、携帯をいじっていたり、寝ていたり。静かだし、お互いのスペースを尊重する。その代わり、気分の悪そうな人や荷物が多い人に話しかけて、席を譲ったり、などもそんなない。
インドはまた極端だった。私が住んでいたコルカタみたいな街なら地下鉄が通っていてまだ都会な感じがするものの、ローカル単位ではオートリキシャに乗って、知らない人とぎゅうぎゅうに相乗り移動の方が多い。遠距離の列車の寝台列車などでは、気づくと自分の寝台に3人くらい座ってる。12時間単位での遅れも何も言われず、よく起こる。一度なんて24時間以上遅れて来たこともある。文句を言っても「来たでしょ?」と返された。
オートリキシャの後ろの席に3人でギュウギュウ座っていた際、右端に座っていた人が真ん中の私を通り越し、一番左に座っていた、遊びに来ていた私の姉の腕をいきなり掴み、袖をまくり時計をみて、見終わったらペイっ!と腕を放り投げた。わたしはインドに慣れていたから「あぁ、時間が知りたかったんだ」とわかったけれど、姉は「なに??何がしたいの??」と混乱していた。
列車でポテチを食べてたら、知らない人が隣に座って手を袋に突っ込んで、バリバリ食べ始め、私のまだ開けてない水を開けていいかと、アイコンタクトで聞いてきて、答えを待たずに開けられ飲まれたこともある。私もうまそうなものを食べてる人に「それおいしそうね!もらっていい?」と聞いても快く頂いたこともある。
トイレなんてただ列車の床に穴が空いてるだけなので、線路の真ん中に転々とブツが落ちている。たまに数時間駅でもなんでもない場所に電車にが止まったりもする。何かと思って外に出てみたら、なんと進むべき線路を直していたのだか、つくっていたのだか・・・、とにかく作業をしている様子だった。不安になるから見なかったことにした。
東ヨーロッパではバス移動が多かった。面白かったのは、長距離の場合トイレ休憩が入るのだが、確かチェコからハンガリーへの夜行バスで、朝の2時頃バスが止まったためトイレ休憩に降りたら、どこかの団地の庭で、みんな普通にそこで、あまりにも当たり前に、威風堂々とズボンを下ろして用を足し始め、心底びびった。現地人ではないのは私だけで、だれも英語を喋れず、しかも土地柄的なのかだれもにっこりとは笑わず、ここでしていいのか、とオロオロしている私を見て、にやりと笑い、なぜかお菓子をくれた。
大変だったのはパレスチナ。街から街へはセルビース(サービスのアラビア語訛り)と呼ばれる相乗りバンタクシーでの移動が主なのだが、イスラエル軍による一般車道の閉鎖が頻繁に起こるため、どんなルートで行くのかどのくらいかかるのかいつも検討がつかない。しかも、滅多に地元客以外の人なんて来ないから、目的地の代わりに、その人の家へと連れて行かれ、やれ夕飯食えやら泊まっていけやら、おじいちゃんおばあちゃん、従兄弟や兄弟みんな呼び寄せ紹介されるなんていうことが一度ならず3回くらい起こった。
パレスチナは好きか?楽しいか?!とアラビア語特有のちょっと怒ったような喋り方で迫られ、「好きだ」と答えると、そうか!!とまた大声でいいながらバシバシ背中を叩く。
見ず知らずの人たちと、半強制的に「移動」という同じ目的のために小さなスペースを共用する。よく考えてみるとちょっと不自然な状況での、色んな国の有り方はとってもおもしろい。自己主張の激しいながら、ダイバーシティに富み、フレンドリーな地域。お互いのスペースを尊重する、「放っとく愛」のある地域。個人スペースやプライバシーなど存在せず、その代わり「他人」とも感じさせない距離の地域や、朗らかでは決してないけど、堂々とニードを通しにくい暖かさを感じさせる地域や、ちょっと無理やりだったり面倒くさかったりするけれど、とってもオープンでおおきく受け入れてくれる地域。良いでも悪いでもない、違い。でも、どこにいても、不自然なちっちゃいスペースで、すこしでも、誰かの笑顔のたしになれるなら嬉しい。そう考えると、NYでの地下鉄通学も、そんな悪くはない。
「善」を行える人って、生まれつきそうなんだと、昔は思っていた。でもきっとみんな「けっ」と「それでも」の繰り返しで、蹴り返されても、傷付けられても、たまにやさぐれても、「それでも」、今日1日づつ「善い」を選んで行けば、きっと振り返ったら善いの道を歩んでるものなんだと思う。 「それでも」やり続ける努力を、今日も私ができますように。
きょうこ
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