願成寺メルマガを執筆して下さった観智院ご住職土屋正道上人が、この春、京都の大本山清浄華院にて御忌代理導師を務められ、随喜させていただいた。
法要に先立ち、ご尊父土屋光道上人が「臨終の用心」と題されてのご法話があった。まず善導大師の「発願文」の「願わくは弟子等、命終の時に臨んで、心顛倒(てんとう)せず、心錯乱(しゃくらん)せず、心失念せず、身心に諸々の苦痛無く、身心快楽(けらく)にして、禅定に入るが如く、聖衆現前したまい、佛の本願に乗じて、阿弥陀仏国に上品往生せしめたまえ。」を説かれ、恵心僧都(源信)の臨終行儀の実践を紹介された。
そして法然上人の一枚起請文の「ただ一向に念仏すべし」を説かれ、臨終までのお念仏の大切さをご教示された。
米寿を迎えたとはいえ、1時間におよぶご法話に何ら揺るぐことなく、説かれているお話にお姿に感動すらおぼえるのであった。実践をともなう上人の言葉であるからこそ、説得力にあふれ、心を打たれるのである。話をするということは、言葉の構築によることは無論であるが、ひとつひとつの言葉の後ろにあるその人の人間性によることを再認識させられた。
祖父の臨終の様子を父から聞いたことがある。戦後まもなくのことであり、まだ私は生まれてはいなかった。
胃潰瘍で吐血をくり返しての往生であったという。親族や弟子たちが集まると、「お念仏を申せ」との言葉にお念仏を唱えていると、薄れていく意識のもとで「声が小さい」と叱咤(しった)されたという。会ったことのない祖父の思い出である。
脳梗塞で療養中の父が入院をした。主治医はお檀家さんであり、母ではなく私と妻が呼ばれ、そう長くはないことを告げられた。その日から、家に帰る時の着替えと白衣をそっと車のトランクに入れての看護となった。
すぐに祖父のことが思い出された。父もよい臨終正念であって欲しいと思った。すでに意識はなく、延命を希望する母によって、腹膜透析までおこなった。
土屋上人のご法話は、祖父から父の臨終、そして自らの臨終まで考えることとなった
祖父のようでありたいが、父のが楽かなと思う自分に腹が立った。
でも、私にとっては、よき「御忌法要」であった。
【御忌】ぎょき
浄土宗で、宗祖法然の遷化の忌日、旧暦正月二十五日に行う法事。近年では春おこなうことが多い。
【随喜】ずい‐き
1 仏語。他人のなす善を見て、これにしたがい、喜びの心を生ずること。転じて、大喜びをすること。
2 (1から転じて)法会などに参加、参列すること。
【臨終行儀】りんじゅう‐ぎょうぎ
臨終に当たって念仏者が仏・菩薩の来迎を得るために念仏するその作法。阿弥陀仏の像を安置し、仏の手より垂れた五色の糸を手にとって、往生の想い、迎接(ごうしょう)の思いを抱いて、念仏をする。念仏は必ず十遍を限る。源信以来、行われた。道長はこの行法を行った一人である。
【臨終正念】りんじゅう‐しょうねん
1 臨終に心静かに乱れないこと。特に、心静かに極楽往生を願って念仏すること。
2 真宗では、臨終に心静かに念仏することは、自力の念仏であり、称念を期してはならないと説く。また、時宗では、臨終正念の臨終は死の時ではなく、生きている今この時ととる。
【腹膜透析】ふくまく‐とうせき
腹膜を利用した透析療法のこと。腹部に挿入した穴から透析液を注入し、循環させた後に排出させる。人工透析よりも身体への負担が少なく、自宅で行うことが可能。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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