夏は、なぜかいつも切ない。世間一般的にも、切なさやノスタルジアを前面に押し出してきているような気がする。花火にしかり、夏メロにしかり、「今しかないよ、二度とこの時間は戻ってこないよ」と、蝉のバックグラウンドコーラス付きで、夏は夕陽と汗で叫ぶ。
小さかった頃は、夏休みが終わって、新しい学年(アメリカの教育システムでは9月が切替月)が始まる不安もあるのか、夏のおわりに感じる気持ちには、変な満足感とともに、少し焦りや、心苦しさも含んでいる。そして大人にになった今でも。
おませだったわたしは、若さとバカさをほぼ同義語と見なし、14の夏にはもうほぼ毎晩六本木のクラブに剥がれ落ちるほどのメイクと、こぼれ落ちんばかりの胸パッドをブラに詰め込んで出かけていた。その頃もうすでに自殺願望が強く、新しく発見し始めた「女」であるということの価値と、若さの価値を振りかざすことにより自己価値の再確認を行うかのように、慣れないハイヒールで出かけた。16のころにはそれはレイブカルチャーに移って、ドピンクの髪と厚くて重いのに時代劇のお代官様みたいなブッカブカのズボンで夜の街を練り歩いた。ほとんど帰らなくなった。
そして8月生まれの私は、18になる誕生日を精神病院の閉鎖病棟で迎えた。母は泣いていた。父は謝っていた。だいぶ上の方に設置された、覗けない届かないちっちゃい窓が、ベッドに括り付けられ動けない私を、猫を焦らすかの様に、コンクリートの床に四角を作り上げて時間とともに動いていた。最後の夏だと思っていた。普通病棟に移った後、病院仲間と公園で酒を呑みながら花火をやって、「二度と戻らないよ」の蝉の声に攻められている気がして、また泣いた。
今回日本に急遽2週間だけ帰っていたのだが、アメリカに発つ前日実家の荷物の整理を行っているなか、昔アリゾナの更生施設に収容されている際、ホームシックになっている私に母が送ってくれたレシピのコピーを読み返した。一度なくしてしまい、「またあのレシシピが欲しい」と去年私の誕生日にねだった際、「30歳の娘にふさわしいレシピ」と数ページ書き足してくれたものをくれたのだ。読んでいて涙が溢れてきた。18歳の娘を、助からないと思い施設に入れた母はどんな気持ちだったろう。遠い国に「置いてきた」と罵る私へ、それでも強くあろうと、そして母であろうと必死に、まるで幼稚園生の子供に書く手紙のように、包丁の絵や、豚さんの絵などでちりばめられていた。読みやすいように、おっきな字で。
私が小学生くらいの頃、母はバランスをとても崩していた。お酒を沢山飲んだり、安定剤を飲んだりしていた時だった。いつも、「母が死ぬのではないか」と怖かった。怒って物を壊すことや、悲しみで記憶をなくすことなどもあった。母を安心させるために嘘をついたり、帰ってこない他の家族の分もと、母が準備した6人分の素晴らしい食事を途中でトイレに立って吐きながら完食したこともあった。兄から受けていた暴力のことも、兄にまた攻められる恐怖と母が自分を攻めてしまうであろう恐れで、上手く口にできなかった。
どれだけ母を攻めただろう。どれだけ、私の「荒れた」結果を母のせいにしてきただろう。それでも母は、それを受け止め、離れた私を案じ、攻める私にさえ「かわいいキョウちゃんへ」とエプロンの絵を書いたFAXを送るのだ。
もうすぐ31歳になる私は、今年はアメリカである従兄弟の結婚式に出るため早めにアメリカに帰り、西海岸にせっかく来ているので山を登り、誕生にはおそらく一人キャンプでもしてからNYCに帰るつもりだ。大人になった私は、やっぱり戻らない時間を知らしめる茹だるような暑さと蝉の声に、今は焦りはないものの強いノスタルジアを感じ、字面からビンビン感じる母の計り知れない愛に打ちひしがれ、アメリカに帰りたくない、とまた泣いた。なんて、なんて恵まれて育ってきたのであろう。母はとても不完全ながら、背筋をピッと伸ばし、なにがなんでも愛し抜くと、がむしゃらに、潔く、その道を進んできた。こんなに不完全な人間たちが愛すからこそ、愛は意味深い、価値のあるものなのだ。
あまりに幼稚な私は、まだそれを優雅に堂々と受けとれなく、色んな人をこれからもがっかりさせたり、傷つけたりするのだろうけれど、不完全で、時にとても壊れやすい愛を真に受け取れるようになり始めて、自分も愛していけるのだろうと、また母から一つ学ばされた。
きょうこ
|